今週の名言 : 小林徹さん(造園職人) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク=========
くどくしつこく、
コツコツと…
=========
植物と語らうようにして
創る庭には
草花の命があふれ、
現代の名工
黄綬褒章
など
多くの称号を
最年少で総なめにするなど
あまたの栄誉を
手にしながらも
誰よりも泥臭く
何度も修正を繰り返す
造園職人であり
(株)エコグリーン設計
社長をつとめる
『小林徹』
さんの言葉です。
小林さんは1971年
埼玉県深谷市で造園業を営む
家に生まれます。
埼玉県立
羽生実業高等学校(商業科)を
卒業すると
そのまま実家の造園業で
仕事を始めます。
向上心も高く
メキメキと腕を磨いていきますが
お客さんからは
その技術ではなく
家の仕事を
引き継いでいくことばかりに
関心が向けられることに
嫌気がさしたこと
自分の実力を試してみたいという
想いが高まったことに加え
この先
和風庭園だけでは
お客様のニーズに対応できない
との想いから
25歳の時に独立を決意
勘当同然で家を出ます。
ところが
現実はそんなに甘くは
ありませんでした。
1件1件
仕事の依頼を求めて
各ご家庭を訪問するも
仕事はほとんど頂けず
独立後2年間は 3万/月ほどの
収入という日々が続きました。
そんな中にあって
単に剪定・庭づくりが
できるだけの造園職人など
世の中にごまんといる
もっと「自分らしさ」を
磨いていく必要があると考え
デザイン
土木工事
技能士
施工管理技士
配管
電気工事
・・・
などの資格を
取り続けていきました。
どんなに小さな仕事でも
受けられるようにとの想いでした。
そして独立してから
2年目がたった1月1月の夜
スーパーの駐車場にたてられた
ポールの修理の依頼が舞い込みます。
元日の夜で
誰も引き受けてくれる
業者がいない中
小林さんは
すぐに現場に向かい
その日のうちに修理を完了
これがきっかけとなり
決して仕事をことわらず
あらゆる技術にたけた
すごい職人がいると
じわじわと口コミで
広がっていきます。
やがて大きな仕事も
増えていく中で
独立をしてから
10年目の時に
小林さんに思っていない
出来事が起こってしまいます。
それは
最も信頼していた社員が
会社の重要データを
すべて持って
逃げてしまったのです。
信頼していた人からのうらぎり
張りつめていた糸が
プツンと切れてしまいます。
次第に体に変調をきたすように
なっていきました。
・周りの人と会話ができない
・食事がのどを通らない
・めまいや立ちくらみ
・・・
「うつ病」でした。
以下の動画でも紹介がされています。
そんな中にあって
唯一の救いが
やはり造園でした。
造園に向き合っている瞬間は
過去のことを忘れ
目の前のことに集中できる時間
こうして
一歩一歩前を向いて
歩いていきます。
小林さんは
現在では35の資格を持つも
もともと頭悪いから
20回以上も試験に落ちてきた、
大事なのは継続と
後輩たちに指導されています。
また造園業は現場仕事
ということで
毎日のランニング
ジムでの筋トレ
食事も朝は右手・夜は左手
・・・
様々なこだわりを
日々継続されているようです。
仕事の中でも
以前に手がけた場所の
近くを通ると
必ずその現場に
立ち寄って
自分の剪定や工事が
適切だったのかを
確認し修正する作業を
怠りません。
こうした
小林さんの生き方が
まさに冒頭の言葉
くどく、しつこく、
コツコツと
がとてもよく
伝わってきますね。
自分らしさを
磨き発揮させるための
継続・習慣の
とても分かりやすい
生き証人。
これからも
頑張って頂きたいと思います。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
スポンサードリンク
今週の名言 : 筒井良太さん(線香花火職人) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===========
周りとは異なる
自分の「個性」を!
===========
子供から大人まで
思わず見とれてしまう
線香花火
夏の風物詩として
今なお根強い人気が
あるものの
その99%は輸入品。
国内で製造している会社は
たったの4軒のみ
何としてでも
日本の伝統を
守り続けたいと
日夜、線香花火と
向き合い続ける
線香花火職人
『筒井良太』
さんの言葉です。
1973年 福岡県出身。
花火師の家系に生まれ
幼いころから
火薬で実験などして
遊んでいたそうです。
しかし
高校を卒業すると
外の世界を知りたいと
愛知県の
自動車製造会社に就職
3年後に地元に戻るも
実家の花火会社ではなく
当時日本で唯一
線香花火を製造していた
『隈本火工』に入社し、
線香花火作りの修行を始めます。
こうして『隈本火工』での
3年間の修行を経たのち、
いよいよ実家の
『筒井時正玩具花火製造所』
に戻るものの、
当時は
外国産の安い花火が
ドンドン日本に入り
このままでは
もう太刀打ちできない
状況でした。
この先どうしたらいいのか
考えぬいた先にあったのは
「差別化」
でした。
同じようなコストで
同じような花火を
作っていても
誰も自分の花火に
興味なんか示してくれない。
海外では作れない
国内でも自分にしか作れない
そんな線香花火を
作ろうと
10年もの歳月をかけて
必死になって試行錯誤を
重ねます。
火薬の配合の違いによる
花火の光の色、音、光り方の
研究を重ねます。
配合した火薬を
ワインのように
長期間寝かせることで
火花が安定し落ち着くことを
発見します。
さらには
長時間火花が
咲き続けるための
紙の拠り方を編み出します
そしてついには
伝統的な線香花火の
原料である
ワラにも最高のものを求め
米のためではなく
ワラのために
自身で田植えまで
始めてしまいます。
他にはない個性
自分らしい個性
周りと同じでない個性
だからこそ
線香花火では珍しく
セレクトショップでも
販売されるに至っています。
そしてもっともっと
線香花火の魅力を
伝え続けていきたいと
15年前に始めた
線香花火ワークショップも
大人気だとか。
こんなところにも
筒井さんらしい
個性があふれていますね。
ぜひ皆さんも
筒井さんのように
周りと違う自分を大切に
日々過ごしていきませんか・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
スポンサードリンク
今週の名言 : 竹下義樹さん(全盲弁護士) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===========
僕の性格は、
諦めが悪いこと
===========
中学の時
所属していた相撲部での
ぶつかり稽古が影響し
網膜剥離で失明
その後
数々の苦難を乗り越えて
9度目の司法試験に合格し
日本人初の全盲弁護士となり
障害者や生活困窮者に
向き合い続けている
『竹下義樹』
さんの言葉です。
中学の時に
失明すると
高校は
石川県立盲学校に入学し
針灸、指圧、
按摩マッサージなどを学びます。
しかし
高校2年から3年生にかけて、
旧友たちと進路について
話をしていると
大学に行く子、
就職する子、
いろんな進路があるのに、
自分だけ
鍼灸マッサージの選択肢しか
ないことに愕然とします。
そこで
これまで全盲の人が
実現したことのない
弁護士
を目指すことを決意します。
しかし9回目での
司法試験合格までには
この場だけでは
お伝えしきれないほど
たくさんの
紆余曲折がありました。
今回はその中から
3つに絞りその内容を
紹介していきます。
まず1つ目は、
当時、全盲の人は司法試験を
受験できませんでした
何度もアポなしで
法務省を訪れ全盲の人への
受験資格を訴えますが
法務省の役人からは
つれない返事のみ。
まるで障害者が
お荷物扱いされているようで
くやしくてたまりません。
それでも 人を助ける
人間になりたい
障害者のような
1人の小さな声であっても
大事にできる
弁護士になりたい
そんな想いで頑張っていると
友人たちが
応援の輪を広げるための
冊子を次々と作り
学生や市民、法務省へ
送り続けていると
ついに夢が叶い
全盲の人の受験が
認められました。
次に9回目での
司法試験合格までの
紆余曲折の2つ目です。
1回目、2回目ともに試験不合格
この原因は明らかでした。
目で文章を読むのと
点字で読むのとでは
2~3倍程度の
スピード差があると
言われています。
竹下さんのことを
応援してくれていた
先輩弁護士の方が
マスコミに訴えようと
提案してくれたことが
きっかけとなり
3回目の試験からは
時間延長での受験が
認められます。
とはいうものの
当時の司法試験合格率は
わずか2%
点字用の教材も
ほとんど皆無
ここでも仲間たちが
竹下さんを助けてくれます。
六法全書などの法律書などを
全部点字に起こし
その数なんと200冊
いかに
竹下さんの熱い想いが
周りにも伝わっていたかが
分かりますね。
そして9回目での
司法試験合格までの
紆余曲折の最後3つ目です。
家計が火の車!
当時、
結婚されお子さんも二人
毎日マッサージの
アルバイトを何時間も
やりながら
受験勉強を
続けるも
時間が足りない
生活費が足りない
そんな中でも
「夢をおいかけてほしい」
という奥様の強い後押しが
竹下さんの
頑張りにつながっています。
後年、
ご自身の人生を振り返り
次のように語られています。
日本全体が
障害者に偏見を持っている
時代だった
障害者だって
努力すれば夢が実現する
環境を作りたかった
とにかく
あきらめの悪いところが
僕のいいところ(?)
挑戦こそが
我が人生
自分の病気や障害で
自分に自信を持てなかったり
マイナス思考に
なってしまったり
ときには悩んだり
人生をあきらめたり
している人も少ないと思うが
自分がやりたいことを
いかにやるか
で考えた方が
人生は楽しいよ。
竹下さんの合格以降
新たに3名の
全盲弁護士が
誕生されています。
ぜひ皆さんも
竹下さんのメッセージを
胸に
自分の夢を抱き
いかに実現するか
そんな
人生を歩んでいきたいですね
こちらをクリック頂けますと幸いです。
スポンサードリンク
今週の名言 : 朝倉誠二さん(パン職人) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===========
自分で望むことは、
本気でとりにいけ…
===========
一度食べたら癖になる!
やめられない!
自家製天然酵母の力で
できあがるパンの
得も言われぬ深み
店の前には
連日行列ができるほどの
人気店
ブーランジェリー
セイジアサクラ
のパン職人
『朝倉誠二』
さんの言葉です。
パンマニアが選ぶ
パンオブザイヤーにて
2014年バケット部門
2015年カレー部門
で金賞を受賞。
連日全国から
これらのパンを求めて
朝倉さんの店を
訪れます。
レーズン
ゆず
ホップ
ていねいなつぎたしを
重ねながら
大切に育てた
3種類の酵母種を
パンの種類に応じて
使い分ける
こだわりが
他の追随を許さない
おいしさを生み出します。
朝倉さん曰く
針に糸を通すような
一番おいしいところがある
日々そこを
見つけていくとに
集中されているのだと。
一口食べたときの幸せ感
食べるたびに感動
お客様からも
絶大な評価を頂いています。
そんな朝倉さんが
パンと出会ったのは
高校生の時
たまたま
自宅近くにあった
製パン屋で
アルバイトを始めると
パンづくりの楽しさに
取りつかれていきます。
高校を卒業すると
そのままその店に就職。
ますますパンに対する
想いが深まる中で
26歳の時に
新たな行動をおこします。
もっと腕を磨きたい
フランスパンの本質をつかみたい
何のコネもあてもないにも
関わらず
フランスへと渡ります。
そして
フランスの有名店で
働きたいと
超人気店に
飛び込みで 頼み込みます。
有名店だけあって
現地のフランス人でさえも
この店での研修待ちが
たくさんいるなか
ましてやフランス語も
しゃべれないやつなんか
雇えるか
としごく当然の結果に。
それでも朝倉さんは
諦めることなく
自分の仕事ぶりを
アピールすると
なんとその姿に共感が得られ
「明日から来い」との返答
そこから 3か月間
無給かつ無休の
就業を受け入れて頂きました。
さらにはここでの
働きぶりが評価され
今度はかの メゾン・カイザーの
新ブランド店から声がかかり
こちらは 給料を頂きながら
社員として仕事をされています。
当時を振り返り
朝倉さんは次のように
語られています。
自分で望むことは
本気でアピールして
本気で
取りにいくことが大事
ただ望んでいるだけでは
ダメなんです。
フランスで3年間の
修業を重ねた朝倉さんは
日本に帰国すると
本気で勝負したいとの
想いから
自分の名前を
前面にだした店名で
お店をオープン
その結果は
先に紹介をした通りです。
さて皆さんは
いかがでしょうか?
こんなことができたらいいのにな
こんな人生を歩みたいな
自分なりの
夢や希望を抱いている人も
少なくないのではないでしょうか?
限りある人生
ぜひ朝倉さんのように
本気で取りに行きたいですね
成功はもちろんのこと
仮に残念な結果に
終わったとしても
必ず将来の
財産となること間違いなしです。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 金子道人さん(バーテンダー) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===========
Keep
Walking…
===========
世界一の
バーテンダーを決める
ワールドクラス
グローバルファイナル2015で
見事世界一の座を
射止めると
2017年には
ご自身が奈良県で経営する
「LAMP BAR」が
東京以外の店では唯一
「Asia’s 50 best bars」
に選ばれるなど
日本・世界を代表する
バーデンダー
『金子道人』
さんの言葉です。
金子さんは
奈良県の田舎の生まれ。
両親はともに芸術家で
自分の道を究めてほしい
との想いから
『道人』
と名付けられたそうです。
しかしながら
子供の頃の金子さんは
勉強もできない
運動も得意でない
自信のあることがない
得意なことがない
夢もなければ
目標もない
自分の人生なんて
ずっとこんなもんだろう
こんな思いを抱きながら
日々過ごしていたようです。
将来に希望がもてず
両親が芸術家ということで
芸術系の高校を受験するも
あえなく不合格
とりあえず
料理系の学校に通うも
あまり好きになれない
その後も
アルバイトで
なんとか食つなぐ
といった生活でした。
そんなある日のこと
アルバイト先の先輩に
連れていって頂いた
Barで
衝撃的なモスコミュール
に出逢います。
あまりの感動に
心の中が
ザワザワ
ワクワク
自分の人生の中で
初めてこんな感情を抱く
瞬間でした。
それまで
自分でも気づきませんでしたが
一度はまると
のめりこむタイプのようで
めきめきと
バーテンダーとしての実力を
磨いていきます。
いつも暖かく指導してくださる
先輩バーテンダーの
後押しもあり
バーテンダーとしての
技を競う国内大会への
チャレンジを決めます。
しかし
初めて地方大会の舞台に
たってみると
突如、
体に異変が起こります。
周りからみても
明らかに分かるほどの
手の震え。
頭も真っ白になり
どのグラスにどの材料を
入れたのかも
分からないほどに。
緊張感と失敗の
負の連鎖。
こうして人生で
初めてチャレンジしたことで
自分自身が
極度の緊張を感じるタイプ
だと思い知らされます。
そしてこの日から
10年以上同じ大会に
参加を続けるも
なかなか緊張感を
克服することができず
回を重ねるごとに
なぜか失敗の種類も
増えていきました。
やっぱり
俺の人生なんて
こんなもんか
バーテンダーとしての
行き詰まりを感じていたときに
バーテンダー世界大会
の情報が偶然
金子さんの目にとまります。
日本の大会は
理想の型を
いかに忠実に
再現できるかが評価基準
一方で世界大会は
日本とは逆で
創造性や個性
が評価基準。
自分自身を象徴する
カクテルをいかに
プレゼンできるか。
芸術家の両親のもと
桜やひのきの魅力にあふれ
日本の歴史上でも
重要な役割を果たしてきた
奈良県に生まれ
ようやく可能性を感じた
バーテンダーの道
何度も何度も
失敗を繰り返し
それでも
こうしてチャレンジを重ねる
そんな
自分を表現したカクテルで
挑みます。
日本代表として
初めて参加した世界大会では
やはりこれまで同様に
頭が真っ白になり
ミスを連発して
大パニックとなり
予選敗退
失敗した時の対処法まで
練習をして臨んだ
翌年の大会での
金子さんのコンセプトは
Keep Walking
金子さんの人生が
ギュッと詰まっていますね。
10分間で10種類の
カクテルをつくる競技では
最初の2分は頭が
まっ白になるも
失敗しても大丈夫だと
いう安心感からか
過去10数年間で
初めて平常心を取り戻し
見事グランプリを
獲得しました。
当時のことを
金子さんは
次のように
振り返られています。
これまで長い間
真剣に向き合ってきたにも
かかわらず
何度もたくさんの
失敗をしてきた。
でも
その1つのひとつの失敗は
決して無駄ではなかった。
むしろ
これまでの失敗があったからこそ
今があると言える。
いつも
予想しなかった困難に出会い
失敗し
それでも次に向かって
歩み続けてきた
だからこそ今がある
まさしく
Keep Walking
さて皆さんは
いかがでしょうか?
世の中に失敗をしない人など
どこにもいませんね。
違いがあるとしたら
この失敗への向き合い方
あーこれまでの努力が
全くの無駄だったと
悲しい過去と捉えてしまうのか
それとも
この挑戦は決して
無駄ではでなかったと受け止め
この失敗をバネにして
未来の成長に向かっていくのか
ぜひ皆さんも
金子さんのように
後者の自分で
ありたいですね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 永澤康太さん(宅配ドライバー) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク=========
苦労の数だけ
笑顔に変わる…
=========
エッセンシャルワーカー
人々が
日常生活を送るために
欠かせない仕事を
担って頂いている人
特にコロナ禍にあっても
ストップするわけにはいかない
仕事に従事する人々に対して
感謝や尊敬の念を込めた
呼称として使われています。
そんな
エッセンシャルワーカーの
1つである宅配ドライバー
ヤマト運輸に所属する
6万人のドライバーの中で
トップの実力と
評価される
『永澤康太』
さんの言葉です。
永澤さんが配達を担当する
エリアの住民は
永澤さんのことを
次のように語ります。
元気が出る
ウキウキする
細やかな気遣いがステキ
この先も
ずっとこのエリアに
いてほしい
全国にたくさんいる
宅配ドライバーの中でも
これほどまでに
住民の方々に
良く知られ慕われ
なくてはならない存在に
なっている人は
ほとんど
見当たらないでは
ないでしょうか?
永澤さんが
担当するエリアの
住宅は約2000件
永澤さんは
そのすべての家の方が
どの時間帯であれば
家にいるのかを
把握しているのだそうです。
また車を降りて
荷物をお届けするときには
常に走ります。
それは
お客様のご要望や
確認事項があるときには
丁寧にお答えする
時間を捻出するため
そして
安全運転・安全確認をする
時間を創るため
宅配の仕事とは
ただ単に荷物を運ぶのではなく
荷物を出した方と
その荷物を心待ちに
している方の
想いをつなぐ仕事
人と人をつなぐ仕事
だと言われています。
こんな想いがあるからこそ
宅配ドライバーとしての
プロとして
細かいところへの
気遣いがいきわたるように
なるのですね。
社会人になると
若い社員の皆さんに
「3人のレンガ職人」の
イソップ寓話から
働くことの意味を
考えて頂く会社も
多いですね。
どんな内容か
簡単に紹介しておきましょう。
中世のとあるヨーロッパの町。
旅人がある町を歩いていると、
汗をたらたらと流しながら、
重たいレンガを運んでは積み、
運んでは積みを繰り返している
3人のレンガ職人に出会いました。
そこで旅人は
「何をしているのですか?」
と尋ねました。
すると、
1人目は、
次のように答えました。
そんなこと見ればわかるだろう。
親方の命令で“レンガ”を
積んでいるんだよ。
暑くて大変だから
もういい加減こりごりだよ
2人目は、
次のように答えました。
レンガを積んで
“壁”を 作っているんだ。
この仕事は大変だけど、
金(カネ)が良いから
やっているのさ
3人目は、
次のように答えました。
レンガを積んで、
後世に残る“大聖堂”を
造っているんだ。
こんな仕事に就けて
とても光栄だよ
まさに永澤さんは
この3人目のレンガ職人と
同じ視点で仕事に
向き合っていることが
分かります。
しかし
過去の永澤さんは
今では
想像もできないような
どん底の人生を
歩んでいました。
小学生の頃
勉強にスポーツに
チャレンジするも
なかなか思うような
結果を出すことができず
何をやっても
中途半端
しだいに
そんな自分に対して
コンプレックスを
抱くようになります。
中学を卒業すると
保育士になりたいと
短大に通い始めるも
いざ実習に行ってみると
あまりの大変さに
逃げ出したくなり
1年で短大を退学
その後
バイクの販売店で
働き始めるも
今度は
2か月で逃げ出します。
何て自分は
カッコ悪いんだろう。
自分なんて
もう誰からも
必要とされていない。
しだいに
夜にあそび回るようになり
現実から逃避していきます。
そんな
息子を心配した母親は
当時ご自身が勤めていた
ヤマト運輸で働くよう
永澤さんを説得
永澤さんは
心の中で
トラック運転手なんて
ただ荷物を運ぶだけでしょ
とまさに
先の1人目のレンガ職人の
発想で仕事を始めます。
しかしいざ仕事を
始めて見ると
仲間のドライバーの
半分の量の荷物すら運べない
あーやっぱり自分はダメだ!
と思っていると
周りの仲間たちが
やさしく声をかけてくれます。
大丈夫だよ。
最初はみんな同じだよ。
全部一人で
抱え込まなくていいよ。
君は一人じゃないんだよ。
こんな素敵な人達から
逃げ出してしまったら
この先の人生
もう終わりだ
この人達への
感謝のためにも
前を向いて頑張ろう!
すると
次第に仕事も覚え
さらには
お客様から
「ありがとう」
「この荷物待ってました」
こんな言葉を
頂くようになります。
こんな自分でも
人の役に立つことが
できるんだ
強烈に嬉しくて
仕方がありませんでした。
永澤さんは
過去を振り返り
次のように
語られています。
過去の苦しい時間が
あったからこそ
お客様から
感謝の言葉を
かけて頂いたときに
人一倍
嬉しかったんだと思う。
10代の頃には
どん底を味わってきたけれど
あの時期が
あったからこそ
今がある
今この瞬間も
世の中で苦しんでいる人も
いることと思うけれど
苦労の数だけ
笑顔に変わる
そんな日が
必ず訪れます。
さて皆さんは
いかがでしょうか?
すべてのことが
順風満帆に進む人など
世界中を見渡しても
どこにもいませんね。
時に
落ち込んでしまうことも
あるでしょう。
時に
苦しく辛い想いを
している人もいるでしょう。
ゆっくりでも構いません。
少しずつでも構いません。
これまでの苦労が
笑顔に変わる日が来ることを
信じて
前を向いて
歩んでいきませんか…
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 村上塁さん(靴修理職人) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク==========
やってみないと、
分からない…
==========
最愛の人からのプレゼント
大切な家族の形見
その人にとって
かけがえない存在の靴
損傷が激しく
このままでは履けないものの
持ち主にとっては
思いでの詰まった
唯一無二の靴
他店では断られるような
特別な修理を必要とする靴の
最後の駆け込み寺として
知られる
ハドソン靴店
靴修理職人
『村上塁』
さんの言葉です。
自分がこの先の人生で
本当にやりたいことは
何なのか?
大学生になると
様々な人たちと接する中で
真剣に考えるように
なります。
そんなときに
テレビで靴職人の
映像が流れてきて
興味を持ったことが
きっかけとなり
通っていた大学を中退して
靴の専門学校に飛び込みます。
いくらあれこれ
考えたところで
やってみないと
分からない。
そんな思いからの
行動でした。
当時、
専門学校に通いながら
ハドソン靴店でも
修業していましたが
早く現場で
やってみたいとの思いから
専門学校も中退し
ハドソン靴店に
本腰を入れることになります。
このときもまた
やってみないと
分からない。
こんな思いでした。
そんな中
村上さんの師匠でもある
ハドソン靴店の先代が
1991年に病気のため他界
先代の奥様から
お店を引き継ぐことを
頼まれます。
当時の靴業界では
立地が9割・技術が1割
と言われていた世界
お店の経営も
かなり厳しい状況の中
やはり
やってみないと分からない
の想いで引き継ぐことに。
それまでは
オーダーメイドの靴を
作っていましたが
このままではこの先
しりすぼみに
なってしまうとの
危機感から
靴の修理に特化した
ニッチな世界で
勝負をかけようと決意
どんな靴でも
修理できるよう
革の部材を特注し、
数100種類をそろえ
染色液も数100種類
模様を焼き付ける
コテだけでも
数100種類以上を常備
必要とあらば
数100万円の機材への
投資もいとわない
もちろん道具だけはなく
様々な技術を磨いていきます。
そして村上さんが
最も大切にしていること
それは
お客様の感動
単に技術で靴を
修理して終わりではなく
お客様の思い出を修復
お客様の笑顔
ここをゴールに定めて
日々修理を続けていること。
靴の修理様子は
こちらから↓↓
靴が大好きだった
息子の靴を形見として
自分が履き続けたい父親
写真も何もなく
唯一の形見である
父親の靴を
修復して自分が履きたい
息子
日々こんな依頼が
殺到しています。
こうして村上さんの
人生を振り返ってみると
冒頭の言葉の通り
とにかくやってみよう!
が行動の軸にあることが
分かりますね。
どうしたらいいのか
悩み過ぎることなく
やってみなくちゃ
分からない!
こんな人生を
歩んでいきたいですね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 本多正識さん(お笑い養成所講師) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク============
道を開くのは、
あくまでも自分たち…
============
ナインティナイン
南海キャンディーズ
ウーマンラッシュアワー
かまいたち
ゆりやんレトリィバァ
・・・
お笑い界を席巻する
数多くの人気芸人を
育ててきた
伝説の
お笑い養成所講師
『本多正識』
さんの言葉です。
東京と大阪で
将来を夢見る
若手芸人の
講師をつとめる傍ら
年間300日も
舞台をまわり
育っていった生徒たちに
現場で指導・アドバイス
さらには今でも
年間100本もの
お笑いネタをつくり
芸人に提供するなど
まさにお笑いに
人生のすべてをかける
本多さんの原点を
のぞいてみましょう。
1958年
大阪府生まれ
その後
厳しくつらい日々を
過ごすことになります。
5歳の時に
重い気管支喘息を患い
ほとんど学校にいけず
たまに学校に行くと
壮絶ないじめ。
さらには
家庭内での言葉の暴力。
しかもその後
さらに厳しい現実に
直面することになります。
17歳の時に
深刻な発作と頻脈
医師からは
命の保証ができないと
告げられてしまいます。
部屋にこもりっきりの生活
ただその日を生きる生活
朝目覚めることで
今日も生きていることを確認
俺の人生って
いったい何なんだろう。
こんな
先の見えない不安を抱える中
唯一の救いが
ラジオから流れてくる
お笑いでした
この時間だけが
唯一現実を忘れられる時間
精神的に逃げる場所でした。
漫才に生かされていた。
当時のことを
こう振り返られています。
やがて
漫才を書いてみたいという
想いが芽生え
だめもとで
ラジオ局に応募してみると
見事採用
まれて初めて
自分の力でお金を手にします。
人に認めてもらえたうれしさ。
いつなくなってしまうかもしれない
自分の命。
もう自分にはこれしかない。
周りの反対を押し切り
まさに命がけで
漫才作家を目指します。
人気芸人のネタをすべて
自分で原稿に書き起こし
ヒットの方程式を
探ったり
体調がすぐれない中
あらゆる劇場へ足を運び
笑いのポイントを
つかむなどする中
やがてその実力が認められ
オール阪神・巨人など
多くの芸人に
ネタを提供する
人気作家へと育っていきました。
今ではこうして
講師としての仕事をする中で
常に若手芸人たちに
かけ続けている言葉が
あるそうです。
好きなことをしいや
自分たちがやりたい道を
トコトン突き進め。
本多さんご自身の人生とも
重なるこの言葉の意味は
とても深いですね。
本多さんは講師として
芸人を育てるなんて
おこがましいと言われます。
人を育てるのではなく
人は育つもの
そんな後押しをするのが
講師の役割だと。
好きなことしいや
まわりと一緒じゃあかん
トコトンつきぬけや
ご自身の経験を
苦しんでいる人の役にたてたい
との強い想いから
いじめで悩む
小学生に向けて
書かれた本
「笑おうね生きようね」が
全国学校図書館協議会の
推進図書に選ばれています。
限りある人生
こんな風に生きていきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 矢野了平さん(クイズ作家) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===========
ひらめきが
時代を切り開く…
===========
連日テレビで放映される
人気クイズ番組
ここで出題される
クイズを創るクイズ作家
全国高等学校クイズ選手権
今夜はナゾトレ
オールスター感謝祭
99人の壁
・・・
など数多くの
超人気クイズ番組を
担当するなど
日本を代表する
クイズ作家である
『矢野了平』
さんの言葉です。
矢野さんは
1977年埼玉県の生まれ
6歳の頃に両親が離婚
その後は母親と二人
とても貧しい生活を
余儀なくされます。
そんな中
矢野さんにとって
クイズとは
まさに生きるすべ
だったようです。
ラジオのクイズ番組に
応募して商品をゲットする
こんな子供時代を
過ごされていました。
やがてクイズ大会などにも
出場するようになりますが
クイズの賞金で
このまま生活するのは
難しいとの判断から
クイズ作家としての
道を目指すようになります。
その当時から
ぶらさずこだわってきたこと
それは
これまでの単なる知識を
問うだけの問題はおもしろくない
SNSで調べれば
簡単に答えが出てくるものは
つまらない
例え知識がなくても
答えが導きだせる
そんな新しいスタイルの
クイズで存在感を示していこう
こうして日々試行錯誤を
積み重ねながら
今ではこうして
ひらめきクイズを得意とし、
謎解きブームの陰の立て役者と
評されるまでになられています。
矢野さんは
クイズも人生も同じだと
語られています。
単なる知識のつめこみだけでは
クイズも人生も成功しない
自分の知識やスキル・経験を
何に使うのか
どのように使うのか
ここを
日々考え実践していくことが
とても大事だと。
日々試行錯誤するからこそ
ある日とつぜん
筋のよい 「ひらめき」が
生まれてくる。
人生とは結局
このひらめきの連続
単なる知識の吸収
過去からあったもののモノマネ
ではなく
新しいものを生み出していくことを
大切にしていきたいですね。
さて皆さんはいかがでしょうか?
皆さんは
どのような分野で
ヒラメキ力を
発揮していきたいですか?
そのために
どんな習慣を継続していきますか?
こちらをクリック頂けますと幸いです。
<span style="font-size: 1
スポンサードリンク
今週の名言 : 大山皓生さん(スーパー社長) [ビジネスパーソン (男性)]
スポンサードリンク===============
お客様の共感は
商品力×「人間力」…
===============
愛知県岡崎市にある
小さなスーパー
近隣の大型店に客を奪われ
倒産寸前
そんな苦境の中から
生まれたフルーツサンドが
起死回生の大ヒットとなった
ダイワスーパー社長
『大山皓生』
さんの言葉です。
小学校5年の時に
両親が離婚
その後20歳のときに
母親とのケンカが原因で
家を飛び出します。
何となく大学にも
足が向かなくなり
2年の夏に退学
そんな中
おじいちゃんが
経営していたスーパーが
倒産の危機にある
と弟から聞いた大山さんが
4年半ぶりに
スーパーに足を踏み入れてみると
10年にわたり赤字が続き
多額の着金をかかえていることに
愕然とします。
幼少のころから
おじいちゃん子で育った
大山さんは
おじいちゃんのために
何とかしたいと知恵を絞ります。
大手スーパーには
できないことを
考え続けていた時に
いきついたのが
『人』
でした。
来店される
お客さんの名前を覚え
必ず名前でお声がけする。
スーパーが終わると
ダイワ新聞と名付けて
ときには深夜2時ころまで
ポスティング
翌朝5時には
市場でおじいちゃんと
待ち合わせて
仕入れを行います。
あるとき遅刻して
おじいちゃんを1時間
待たせたことがあったそうです。
そのときの
おじちゃんの一言が
涙をさそいます。
ストーブの前に
1時間いれたから
体があったまったで。
ありがとうな。
どこまでもやさしい人
そんなおじいちゃんの
こだわりは
野菜と果物の仕入れには
妥協することなく
徹底的にこだわること。
少しでもいいものをお届けして
お客様に 喜んで頂きたい。
こんにも素敵な
おじいちゃんの想いを
もっと
お伝えしたいと始めたのが
かき氷
フルーツサンド
でした。
SNSなどで
拡散されたことが
きっかけで
連日、
小さなスーパーの前には
行列ができるほどに
お客さんが訪れます。
このおじいちゃんの
お客様に対する想いのつまった
フルーツサンドを
もっと
多くの人に楽しんで頂きたい
との想いから
東京進出を決意します。
このときも
おじいちゃんの後押しが
大山さんに
勇気を与えてくれました。
フルーツサンド専門店
ダイワ中目黒店
しかし残酷な運命が
大山さんに待ち受けていました。
オープンの直前に
大好きなおじちゃんが他界
最後の言葉は
フルーツサンドが食べたい
でした。
そしてオープン1週間後に
緊急事態宣言
毎日、 数百個単位で
フルーツサンドが
廃棄されていきます。
そんな状況の中で
ふとおじいちゃんの口癖が
頭に浮かんできます。
世の中の人の喜ぶことを
やりなさい。
どうせ廃棄するのならと
コロナで元気を
なくしている人々を
このフルーツサンドで
元気にしよう。
連日、お店の外に飛び出して
フルーツサンドを無料で
プレゼントして歩きます。
運命とは本当に不思議なもので
この活動がきっかけとなり
またもやSNSが起点となって
多くのお客さんに
お店に足を運んで
頂けるようになりました。
そんな大山さんは
フルーツサンドのおいしさは
もちろんですが
おじいちゃんが
大切にしていた
人を大切にすること
人としての魅力を磨くこと
人を感じる店づくりをすること
などに
こだわりを持たれています。
市場に出かけるときには
ご自身の仕入れへのこだわりを
動画配信したり
来店されるお客様には
果物愛をストレートに
お伝えする
ときには
旬のフルーツをサービス
じゃんけん大会
などなど
自分らしさに「共感」して
頂けることを大切にすることで
この人から買いたい!
と思っていただけるのでしょう。
知識やスキルを磨くことと同様に
あるいはそれ以上に
人間力を磨くことの
大切さが伝わってきますね。
ところで皆さんは
いかがでしょうか?
あなたにとっての人間力
あなたらしさ
どんなことが
頭に浮かんできますか?
スポンサードリンク