今週の名言 : 亀井聖矢さん(ピアニスト) [その他]
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どんな自分になりたいか
を考えることが大切…
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2019年、
ピティナ・ピアノコンペティション
での特級グランプリと同時に
日本音楽コンクール
ピアノ部門での第1位
(同年受賞は史上初)
を獲得し、
一躍注目の的に。
いま最も
コンサートチケットが
入手しづらい
ピアニストと言われる
『亀井聖矢』
さんの言葉です。
亀井さんは
愛知県一宮市の出身
4歳のころから
ピアノを始めます。
特に両親が
音楽家だったということもなく
聞いてくれる人が
喜んでくれるのが嬉しく
ときに厳しい練習も
全く苦になりませんでした。
愛知県立
明和高校音楽科を
2年生で終了すると
東京都調布市にある
音楽の名門校
桐朋学園大学発となる
「飛び級特待生」
として同校に入学。
そして
1年生の時に
先に紹介した
若手の登竜門といわれる
2つのコンペティションを
同時に制覇します。
ここに至るまでは
卓越した演奏技術
(超絶技巧)
を目指してきた
亀井さんでしたが
世界で通用するためには
技術だけではなく
その曲に込められた
想いや感情などを
表現することで
観客の心を揺さぶる演奏が
できるようになりたいと思い
ヨーロッパでの
音楽留学を始めます。
ヨーロッパを
体全体で感じたい
自分の師事する人から
ピアノを習いたい
との想いでした。
祖国ポーランドを
ソ連の支配下におかれ
亡命したフランスで
望郷の想いを
曲にのせてきたショパン
ポーランド特有のリズムと
ガラス細工のように美しく
繊細なメロディなど
亀井さんのありたい姿に
向けての道のりは
決して簡単なものでは
ありませんでしたが
自分のありたい姿が
あるからこそ
こうして行動ができ
行動しているからこそ
ときに課題や悩みにぶつかり
こうしたことを
乗り越えようとするから
成長につながる
と言われています。
どのような役割
どのような立場にあっても
亀井さんのように
自分の未来はこうあいりたいな
と思いながら
日々を過ごし
自身の成長へと
つなげていきたいですね。
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今週の名言 : 窪田美和子さん(包丁彫金師) [その他]
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ただ、自分を信じて
進むのみ…
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「包丁の街」
として知られる大阪府堺市。
料理人が使う和包丁の大半は、
ここで作られているといいます。
その歴史は なんと600年。
今その歴史に
新たな新風を巻き起こし
包丁を
「美術品の域までに高めている」
と世界が注目する
女性包丁彫金師
『窪田美知子』
さんの言葉です。
美和子さんは
子供のころから
京都や奈良の
伝統工芸が大好きでした。
大学卒業後、
堪能な英語の力を活かして、
長野県の
医療系の会社に就職するも、
人生には限りがある。
「日本の文化を世界に発信したい」
という気持ちが強くなり、退職。
畳、着物、陶芸など、
様々な伝統工芸を見て回るなかで、
「これだ!」
と思ったのが、
包丁の銘切りでした。
銘切りとは、
包丁に名前を刻む工程のこと。
しかし、
包丁工房に弟子入りを志願しても、
「女人禁制」
の場所も多く、
なかなか
受け入れてくれるところが
ありません。
やっとのことで、
堺の「青木刃物製作所」に入社。
しかし
営業や事務の仕事での採用でした。
自分はどうしても
銘切り職人になりたいと
仕事の前後の
時間を利用して
ひたすら
銘切りの練習を重ねていると
懸命に努力を重ねる姿が
会長さんの目に留まり
入社2年目に
見事銘切り職人としての
役割をゲットします。
さらにはその後も
他の店には無い
ことに挑戦したい
自分にしか
できなことに挑戦したい
と試行錯誤を重ねる中で
包丁に絵をほるという
技法をあみだします。
銘切りへのチャレンジ
絵をほることへのチャレンジ
こうした
チャレンジの段階では
色んなことを言う人も
いたものの
美和子さんは
そんな外野の声など
全く気にすることなく
ただただ
自分を信じて前に進んで
こられたそうです。
こうした
ひたむきな努力と出逢いが
今の美和子さんに
つながっているのですね。
さらにこの先には
立体的な絵をほるという
チャレンジを
考えているそうです。
毎日の仕事が
楽しくて仕方がないという
美和子さんの
こうした
自分を信じて歩み続けるあり方
とても魅力的ですね。
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今週の名言 : 染矢泰輔さん(時計修理工) [その他]
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あなたの夢は
何ですか…
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毎年、
卓越した技能者に対して
厚生労働省より表彰される
通称「現代の名工」
令和5年に
30代という若さで
この「現代の名工」に選ばれた
凄腕の時計修理工
『染矢泰輔』
さんの言葉です。
染谷さんは
1985年大分の生まれ
電気工事を手掛けていた父親
美容師をしていた母親
手先の器用な
両親のもとで育てられます。
幼少の頃には
興味がおもむくままに
掛け時計を分解して
歯車やゼンマイを
バラしてしまい
怒られた経験もあるとか。
こんな
日々を送る中、
将来は
緻密な作業の仕事がしたい!
と近江時計学校に
進みます。
そしてここでの
恩師との出逢いが
染谷さんの
その後の人生を
変えることになります。
その恩師とは当時
時計修理のカリスマ
と言われ
過去には
現代の名工にも
選ばれたことのある
日本を代表する
時計職人でした。
普段はとても温厚な恩師
一方で時計の技術になると
生徒の将来のためにと
とても厳しくなる恩師
社会を知らずに
技術だけ磨いてもダメだと
お客様対応のあり方も
厳しく指導頂きました。
古い時計や
珍しい時計などは
修理しようにも
部品が壊れて
しまっていたり
今では手に入らないことも。
そんなときに
恩師からは
一流の修理工は
部品がないときには
自分で作るものだと指導。
さらには
修理で必要となる
工具なども
どこにも
売っていないため
自分にあった工具を
自分で作るよう指導。
こうした指導のお陰で
染谷さんも今では
まるで
鍛冶職人であるかのように
金属をたたき
焼きを入れ
砥石で磨いて
自分専用の工具を
創り上げていきます。
こうして
技術・工具・対人
などプロの修理工として
実力を高めたいま
他の店では修理不能と
サジを投げられた時計や
古い時計なども
動くようになることは
もちろんのこと
時間が狂わない
精度の高い時計として
蘇ることから
全国からの
修理の依頼が絶えないのも
納得できますね。
緻密な作業を仕事に
という自分の夢を
恩師のお陰で叶えることができた
染谷さんは
今では
近江時計学校の
講師も担当されて
若い方々の「夢」を
優しく厳しく応援されています。
学生に対して
投げかける
皆さんの夢は何ですか?
が生徒の心に
優しく染み入っているようです。
染谷さんのように、
夢を追いかける人生
夢を応援する人生
どちらも
とても魅力的ですね。
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今週の名言 : 三輪優奈さん(鷹匠) [ビジネスパーソン (女性)]
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好きなことに
理由はいらない…
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ムクドリの騒音、
ハトやカラスの糞害など
人々の生活の中での
こうした鳥害が
増えつつある昨今
食物連鎖の
頂点に位置する
鷹を自由に操り
こうした害鳥を追い払うことに
情熱をこめて
活動を重ねている
女性鷹匠
『三輪優奈』
さんの言葉です。
まずは
優奈さんの鷹匠としての
活躍の様子を見てみましょう。
優奈さんは
2000年兵庫県神戸市の生まれ
鳥好きの両親の元で
鳥が大好きな女の子に育ちます。
学校に鳥類研究会がある
と理由で
高校は兵庫県立農業高校へ。
将来は、
バードショーや動物園の
スタッフなども考えましたが
この道20年以上という
ベテラン鷹匠との出逢いや
自分の好きなことで
世の中のお困りごと解決の
役に立ちたいとの想いから
害鳥対策専門の会社
「グリーンフィールド」に就職。
仕事を行ううえで
欠かすことのできない
大切なパートナーである
鷹とともに
自宅での共同生活
毎日のトレーニング
など
一般の方々が考えている以上に
大変な仕事だと言えそうです。
それでも優奈さんは
鷹匠の仕事は天職です!
と言い切ります。
多くの方々から頂く
どうしてそんなに鷹が好きなの?
という質問に
思わず言葉が詰まることも。
好きなことに
理由なんていらない。
好きだかこそ
鷹へ愛情を注ぎ続け
鷹との信頼が増していく
好きだからこそ
自然と鷹匠としての
知識・スキル・経験を
人一倍磨き続け
さらに世の中の
役に立てていく。
鷹匠による
害鳥対策は、
従来の
防鳥ネットや 薬剤散布、
音を発するなどの対策と比べても
景観を損なわず
鳥の保護の視点からもより良いと
今、注目度が
高まりつつあるそうです。
テーマパークやスタジアム、
神社や仏閣など
多い月には
50件を超す依頼も
来ることも。
好きだからこそ
高い意識と自発的な行動で
前を歩み続ける
優奈さんのあり方
とても魅力的ですね。
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今週の名言 : 柳葉敏郎さん(俳優) [芸能人 (男性)]
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世の中は、
案外、公平にできている…
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1980年代
当時では珍しかった
男性路上パフォーマンス集団
一世風靡セピアの
メンバーとして歌手デビュー
当時の若者の
代表格的存在。
その後は超人気番組
『欽ドン!
良い子悪い子普通の子おまけの子』
に良川先生として
レギュラー出演
今では
役者としても大活躍を
されている
『柳葉敏郎』
さんの言葉です。
柳葉さんは
1961年秋田県の生まれ
当時、
映画館の看板絵師をしていた
父親が
稼ぎを全く
家庭に入れなかったことから
母親は夫と別れ
柳葉さんを連れて実家に。
とにかく
生活費を稼ぐために
仕事に励む日々だったそうです。
そしてその後
柳葉さんが8歳の時に
別居中だった父親が
脳溢血のために急逝。
父親との思い出が
全くないままの
幼い子供にとっては
不遇の人生を送ることに
なりました。
こうした背景もあり
母親の柳葉さんに対する
教育方針は、
とにかく自分がやりたいと
思うことをやりなさい。
どんなことをしてでも
応援してあげるから
というもの。
高校卒業後は18歳で上京。
東京で一旗あげようと
「劇団ひまわり」
に入団するも5年もの間、
役者として鳴かず飛ばずの
これまた不遇の時代を
過ごされています。
自分の
やりたいことをやりなさい!
母親の言葉に
そっと後押しされて
決してあきらめることなく
様々なことにトライを
続ける中で
ようやく
転機が訪れたのが1984年。
パフォーマンス集団
一世風靡セピア
のメンバーとして
大ブレークを果たします。
その後も
・男女7人秋物語
・ニューヨーク恋物語
などの
トレンディードラマに
立て続けに出演
直近では
連続テレビ小説「ヴギウギ」
での
主人公の父親役として
発したセリフ
「才能もないのに書くんが
えらいやろ。
やめたらそこで終わりや。
続けるんが一番難しいねん」
が
「名言~」
「人生の深さを感じる~」
と話題になりました。
このドラマ撮影
実は秋田から通われています。
というのも
2006年に
母親が一人で暮らす
秋田県に家族で移住
自分のやりたいことを
やりなさい!
の教えの元
母親への感謝
地元への感謝
田舎で子育てを
との想いからの
決断でした。
若かりし頃は、
なんで自分ばかり
不遇な想いを
しなくてはいけないんだ
と自暴自棄に
なりそうなことも
あったそうですが
今、自分の人生を
振り返ってみても
その時その時を
一生懸命に生きてきたからこそ
その不遇な時代の
何倍も幸せな今がある。
世の中は
案外、公平ですね。
と語られています。
こうして
周りのレールに乗るのではなく
自分の軸にそって
前を向いて人生を歩み続ける
柳葉さんの生き方に
共感を覚えますね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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