今週の名言 : 柳葉敏郎さん(俳優) [芸能人 (男性)]
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世の中は、
案外、公平にできている…
=============
1980年代
当時では珍しかった
男性路上パフォーマンス集団
一世風靡セピアの
メンバーとして歌手デビュー
当時の若者の
代表格的存在。
その後は超人気番組
『欽ドン!
良い子悪い子普通の子おまけの子』
に良川先生として
レギュラー出演
今では
役者としても大活躍を
されている
『柳葉敏郎』
さんの言葉です。
柳葉さんは
1961年秋田県の生まれ
当時、
映画館の看板絵師をしていた
父親が
稼ぎを全く
家庭に入れなかったことから
母親は夫と別れ
柳葉さんを連れて実家に。
とにかく
生活費を稼ぐために
仕事に励む日々だったそうです。
そしてその後
柳葉さんが8歳の時に
別居中だった父親が
脳溢血のために急逝。
父親との思い出が
全くないままの
幼い子供にとっては
不遇の人生を送ることに
なりました。
こうした背景もあり
母親の柳葉さんに対する
教育方針は、
とにかく自分がやりたいと
思うことをやりなさい。
どんなことをしてでも
応援してあげるから
というもの。
高校卒業後は18歳で上京。
東京で一旗あげようと
「劇団ひまわり」
に入団するも5年もの間、
役者として鳴かず飛ばずの
これまた不遇の時代を
過ごされています。
自分の
やりたいことをやりなさい!
母親の言葉に
そっと後押しされて
決してあきらめることなく
様々なことにトライを
続ける中で
ようやく
転機が訪れたのが1984年。
パフォーマンス集団
一世風靡セピア
のメンバーとして
大ブレークを果たします。
その後も
・男女7人秋物語
・ニューヨーク恋物語
などの
トレンディードラマに
立て続けに出演
直近では
連続テレビ小説「ヴギウギ」
での
主人公の父親役として
発したセリフ
「才能もないのに書くんが
えらいやろ。
やめたらそこで終わりや。
続けるんが一番難しいねん」
が
「名言~」
「人生の深さを感じる~」
と話題になりました。
このドラマ撮影
実は秋田から通われています。
というのも
2006年に
母親が一人で暮らす
秋田県に家族で移住
自分のやりたいことを
やりなさい!
の教えの元
母親への感謝
地元への感謝
田舎で子育てを
との想いからの
決断でした。
若かりし頃は、
なんで自分ばかり
不遇な想いを
しなくてはいけないんだ
と自暴自棄に
なりそうなことも
あったそうですが
今、自分の人生を
振り返ってみても
その時その時を
一生懸命に生きてきたからこそ
その不遇な時代の
何倍も幸せな今がある。
世の中は
案外、公平ですね。
と語られています。
こうして
周りのレールに乗るのではなく
自分の軸にそって
前を向いて人生を歩み続ける
柳葉さんの生き方に
共感を覚えますね・・・
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今週の名言 : 博多華丸さん(お笑いタレント) [芸能人 (男性)]
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愛と感謝を
行動で示す…
==========
芸名に「博多」を
つけるほどの
ふるさと愛にあふれ
東京を拠点に
お笑いタレントのほか
ドラマや舞台など
俳優としても活躍する中、
今でも毎週、
福岡の「地域番組」に
出演を続けている
『博多華丸』
さんの言葉です。
華丸さんと言えば
児玉清さんのモノマネが
ブレイクのきっかけと
なりましたね。
そんな華丸さんは
昭和45年福岡県に生まれます。
両親ともに
共働きだったことから
祖母に
面倒を見てもらいながら
幼少期を過ごします。
華丸さんの祖母は
根っからの明るい性格で
地域の人気者
そんな祖母の影響もあってか
高校時代には
学校の先生などのモノマネで
拍手喝采の日々だったそうです。
その後、
父親が経営していた
土木会社を継ぐつもりで
福岡大学の
土木工学科に進学。
そして大学にあった
落語研究会に入ると
ここで
運命の出逢いを果たします。
そう
博多大吉さんとの出逢いです。
在学中に
大学を辞めて
お笑いの世界に進みたいと
父親を説得するも
なかなか「賛成」とは
いかない中
「やりたいことをやりなさい」
と母親が全面的に応援。
イベントがあると聞くと
親戚にも声をかけて
応援に駆け付けるなど
されていたそうです。
その後も
芸人としての活躍を目指して
活動を続けていたある日のこと
父親から1本の電話が入ります。
不慮の事故により
母親が亡くなれたのでした。
親として
口ではなく行動で示すことが大事
をモットーに
職場の仲間たちからも信頼の厚い
働き方を続けていた母親
売れない時代に
無償の愛情をもって
応援を続けてくれた母親
そんな母親の愛情への
恩返しが
華丸さんの
日々の活動の原動力
となっているそうです。
母親への愛と感謝
地元福岡への愛と感謝
こんな想いを大切に
日々努力を重ねる
華丸さんの生き方、
とても魅力的ですね。
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今週の名言 : 津田健次郎さん(声優) [芸能人 (男性)]
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すべては
「地道」な努力のたまもの…
=============
2023年52歳にして
発売した写真集が
オリコン週間ランキングで
男性部門1位を記録
人気アニメ「呪術廻戦」の
七海健人役やなど
声優としての活躍は
もちろんのこと
2年ほど前、
ドラマ「最愛」に
出演して以来
俳優としての
資質にも注目が集まる
『津田健次郎』
さんの言葉です。
津田さんは
1971年大阪市の生まれ
映画監督を夢見て
明治大学文学部に入学
その後、
演劇の世界に魅了され
劇団の養成所に入るも
なかなか
自分に役がまわってこず
悶々とする中にあって
アニメの
オーディションの話があり
受けてみると
幸運にも合格
津田さんの人生が
変わった瞬間でした。
1995年のテレビアニメ
『H2』の野田敦役で
声優デビューを果たします。
現在では声だけで
勝負をする声優と
カメラの前に
全身を出して
演技力で
勝負する俳優の
二刀流に向き合う
津田さんですが
元来より
決して器用なタイプでは
ないそうです。
そんな中にあって
アフレコスタジオで
披露する自在な声も
脇で個性を光らせる
得難い芝居も
全ては
地道な努力のたまもの
だと言われています。
仕事の隙間時間には
自分でレンタルスペースを
借りて
同じセリフを
表現に変化をつけながら
何度も何度も
繰り返し練習をするなどを
日々大切にされています。
ご自身曰く、
どんくさくてイヤになる
だからこそ
愚直に貪欲に
努力を重ねるのみ
そんな努力家の
津田さんですが
その人柄は
素朴で物腰柔らかく柔和
とあるサイン会では
楽しみすぎて寝られなかった
というファンには
このあとおうち帰ったら
ぐっすりやな今日は・・・
高校3年生の受験生の
応援として
一緒に
エイエイオー
の掛け声・・・
こうして
人としての魅力にあふれ
愚直に努力を重ねるあり方は
2024年の私たちの
日々のあり方にも
ぜひ
参考にしていきたいですね。
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今週の名言 : 高橋克実さん(俳優) [芸能人 (男性)]
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自分の「強い想い」が
チャンスを手繰り寄せる…
==================
1998年
ドジでどこかにくめない
部長役を演じた
ドラマ『ショムニ』で
ブレイクすると、
番組司会やナレーションなど
活躍の場を広げ
人気を博している
『高橋克実』
さんの言葉です。
克実さんは
1961年新潟県三条市の生まれ
ご両親そろって
・人を楽しませること
・映画・ドラマを観ること
が大好きだった影響もあり
ご自身もこうしたことが
大好きなDNAを
受け継いでいきました。
そんなご両親の
克実さんに対する想いは1つ。
高校・大学には
通わせたい
というものでした。
克実さんの父親は
若いころ教師になることを
夢見ていましたが
家業を継ぐようにと
強い説得を受け
悩んだ挙句
大学進学(教師の夢)を
あきらめた
過去があるそうです。
また克実さんの母親は
父親が営んでいた
工場のお金を
従業員に
持ち逃げされて
自宅と工場を売却
知人の家の部屋を
間借りする生活
楽しみにしていた
高校進学をあきらめて
中学卒業と同時に
借金返済のため
昼間は料理店の下働き
夜は裁縫の内職
といった生活を
余儀なくされてきました。
自分の夢を
諦めるしかなかった
両親の思いをうけて
高校は進学校に通うも
大学受験に失敗
再度の受験にのぞむために
親を説得して
東京の予備校に通い始めると
しだいに
映画や劇場の
オーディションを受ける
生活が始まっていきます。
こうしたことを知った
両親からは半ば勘当。
それでも
松田優作さんにあこがれ
俳優の道をあきらめられない
克実さんは
自分の強い想いで
大学ではなく
俳優の道に進むことを
選択されています。
上京してから10年
演劇「ゴジラ」で演じた
「モスラ」の役が
話題を呼び
次第に
映画やドラマのオファーが
くるようになり
1998年「ショムニ」で
大ブレイクを果たします。
克実さんは
母親が亡くなられてから
しばらくたったころ
新しい事実を
耳にされています。
それは
ご両親と半勘当状態のなか
頑張っていたころのこと
克実さんの母親が
克実さんには内緒で
浅草にある
本龍院待乳山聖天を
頻繁に
訪れていたとのこと。
かつて江戸時代の役者が
大根役者返上を願ったという寺
芸能ごとにご利益があると聞き
何度も何度も訪れて
克実さんの成功を
祈り続けていたそうです。
どんな親であれ
自分のこと以上に
子供の成功を願うのは
世界共通ですね。
自分の強い想いで
チャンスをつかんだ克実さん
子供の成功を
心底願う母親
どちらも
とても素晴らしいですね。
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今週の名言 : さだまさしさん(シンガーソングライター) [芸能人 (男性)]
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生きがいも
幸せも
私が決めるもの…
============
風に立つライオン
案山子
北の国から
など
誰もが
一度は耳にしたことのある曲を
半世紀の間
生み出し続け
70歳となり
同世代のアーティストたちが
一線を退く中で
今なお
現役として歌い続ける
シンガーソングライター
『さだまさし』
さんの言葉です。
さださんは
1952年長崎県長崎市の生まれ
3歳より
ヴァイオリンを習い始め
1963年、
小学校5年生のとき
毎日学生音楽コンクール
西部地区(九州地区)大会で3位
翌1964年、
小学校6年生で同大会2位。
ヴァイオリン指導者として
高名な鷲見三郎氏に認められ、
長崎市立西北小学校卒業後、
中学1年生のとき
ヴァイオリン修行のため
単身上京して
ヴァイオリンの指導を仰ぎます。
そして
目標としていた
音楽で名高い
高校を受験するも
残念ながら失敗。
人生で初めて
大きな挫折を味わいます。
ヴァイオリンしかなかった
自分はこれからどうして
生きていったらいいんだろう
・・・
ヴァイオリンに代わる
夢が見つからず
来る日来る日も
不安なこと
不満なことを
ノートに書き綴り
手当たり次第に
本を読み続けるも
わたしは誰?
どうやって生きていくの?
自分が見えなくなり
その後通っていた
別の学校も中退し
長崎に戻ります。
その長崎で
ふと再会したのが
昔の音楽仲間でした。
そこでグレープという
ユニットを結成して
活動を始めると
「精霊流し」
が大ヒットとなり
上京して活動を行います。
しかしその後
頑張りすぎが原因で
過労で倒れ
ユニットも解散。
再び挫折を味わい
長崎に戻ります。
その後、
心身が整ってきた
タイミングで
今度は
一人で再出発。
24歳のときでした。
それから3年後の27歳
夫から妻への不器用な愛
をつづった曲
「関白宣言」
が大ブレーク
しかし
ここでもまた
挫折を味わうことに。
それは
複数の団体などから受けた
強烈なバッシングでした
女性蔑視
差別助長
・・・
その後に出した曲でも
様々なバッシングを
受け続け
もうこれで
歌うのを最後にしようと
35歳の時に
地元長崎の皆さんへの
感謝の気持ちを込めて
自ら3,000万円の借金をして
長崎市民に向けて
無料のコンサートを実施
なぜか
こうしたことに対しても
売名行為
偽善者
・・・
とバッシング。
ここでさださんを
救ってくれたのが
地元長崎の人々でした
バッシングに負けるな
いつも応援しているよ
大好きだよ
やめないで
・・・
こうした声に
そっと背中をおされて
5年
10年
15年
20年
・・・
とその後も活動を継続して
今に至ります。
さださんは
これまでの人生を
振り返り
次のように
語られています。
自分の人生は
大きな挫折の連続だった
苦しくなると
地元に長崎に逃げ帰ってきた
すると
みんながいつも優しく
迎え入れてくれた
人生には
様々なことがあるけれど
どう生きるかは
他人が決めるのではなく
自分が決めればいい
自分らしく生きればいい
バッシングに負けて
歌手をやめなくて
本当に良かった
生きがいも
幸せも
自分で決めるもの
長崎への感謝
応援してくれた人への感謝
の気持ちがあるから
今も歌い続けている
それは、
自分で決めたこと
それが
自分にとっての幸せであり
自分にとっての生きがい
私たちも
こうした自分軸での生き方を
重ねていきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 福山雅治さん(シンガーソングライター・俳優) [芸能人 (男性)]
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人と人との出会いへの感謝が
幸運を運んできてくれる…
==================
俳優
シンガーソングライター
カメラマン
など
幅広い分野で
活躍し続ける今でも
デビュー
10周年、20周年、30周年などの
節目となる
大切な記念イベントは
ご自身が生まれ育った
稲佐山で行うなど
地元、
長崎をこよなく
愛していることで
知られている
『福山雅治』
さんの言葉です。
雅治さんは
1969年
長崎県長崎市の生まれ
雅治さんの父である
明さんは
雅治さんの祖父母とともに
昭和20年に
長崎に投下された原爆に
被爆されており
ご自身が
被爆2世であることを
以前、
ラジオで公言されています。
爆心地から
わずか3キロの位置に
いたにも関わらず
祖父母や父親が
生き延びられた理由は
雅治さんの
ライブの聖地となっている
稲佐山
が関係しています。
当時、戦争下にあって
どこかで火災が発生すると
近くの住宅に
延焼してしまうからと
長崎の中心地から
稲佐山の奥への
疎開命令が下されました。
そして運よく
この稲佐山があったお陰で
原爆から
逃れることができたのです。
疎開を指示されたときも
こんな状況にあっても
祖父母や両親は
家を壊され
疎開させられることへの
不満ではなく
疎開を
サポートして頂いた方々への感謝
生活は苦しいながらも
こうして健康な体で
生きていられることへの感謝
そんな
・未来に希望を抱いて生きること
・感謝の気持ちを大切にすること
をとても大事にされる
ご家庭だったそうです。
中学3年生のときに
明るく楽しい
青春時代を謳歌したいと
1歳上の兄とともに
バンドを結成
音楽づけの日々を
過ごします。
しかし
雅治さんが17歳の時でした
当時まだ53歳だった
父:明さんが肺がんのため他界
雅治さんは
高校卒業後
長崎の
電子計測器会社に就職するも
わずか5か月で退職
若くして
父親の死とも遭遇し
もっと未来に向かって
歩んでいきたい!
自分のやりたいことを
やりきりたい。
との想いから
上京して
プロの
ミュージシャンになる
決意を固めます。
周りの友人やいとこなどが
お前には無理だ
やめておけ
と反対する中にあって
そっと背中を押してくれたのが
大好きだった
祖母でした。
上京後も
思うように人気がでない
日々が続きますが、
母親や祖母は
いつも優しくそっと
背中を押し続けてくれました。
被爆地長崎への想い
応援してくれる
母親や祖母への感謝の気持ち
なかなか
人気が出ない中にあっても
こうした気持ちだけは
決して忘れることなく
日々活動を
続けられていたそうです。
やがて
シンガーソングライターとしての
認知度も高まり
NHK紅白歌合戦への出場
ドラマ一つ屋根の下の大ヒット
などへとつながっていきます。
大切な家族
大切な長崎
に深い想いを込めて
歌う歌には
感動的なものが多いのも
うなづけますね。
壮絶な人生を歩みながらも
いつも笑顔で応援してくれた
祖母への想いを馳せた歌
「道標」
祖母が他界された
翌年にリリースされています。
家族になろうよ
AKIRA(父親の名前)
などもその歌詞が
心にしみてきますね。
こうして
未来に向かって
自分の想いを大切にする
姿勢とともに
周りへの深い感謝を
大事にされる姿勢。
雅治さん同様
私たちも
大切にしていきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 川島明さん(芸人) [芸能人 (男性)]
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あなたにとっての「道しるべ」が
人生をより豊かにしてくれる…
==================
日本一の
若手漫才師を決める大会
M1グランプリでは
なんと出場8回中
5回決勝に進出
その低温ボイスが定評で
本人の代名詞に。
さらには
その好感度の高さから
TBSの朝の顔である
「ラヴィット」で
(月)~(金)まで司会を務める
『川島明』
さんの言葉です。
川島さんは
昭和54年京都府宇治市の生まれ。
すでに高校入学当時から
将来はお笑いの道へ
との想いを強く抱き
高校卒業と同時に
自分の夢に向かって
吉本総合芸能学院(NSC)へと
進みます。
このとき
本人の意志を尊重し
全く反対することもなく
力強く後押しをしてくれたのが
母親でした。
川島さんの母親は
子供のころから
両親が経営する
工場の手伝いに加えて
ご自身の母親に代わり
兄弟の面倒をみるなど
我慢と苦労を重ねた
人生を歩んでこられた方。
そんな日々の中、
唯一無二の楽しみが
吉本のお笑いを
見ることでした。
明さんには
仕事を通じて
人々を笑顔にしてほしい。
仕事を通じて
幸せになってほしい。
そんな強い想いから
これまで行っていた
商売に加えて
新しいアルバイトを始め
仕送りにあてたり
本人が出演する番組は
すべてチェックして
厳しいアドバイスも
継続されていたようです。
明さんにとって
最高の理解者であり
最高の応援者であった
お母さまが
2021年に
お亡くなりになったあとに
明さんのことを思って
したためた手紙の下書きが
見つかり
次のようなことが
書かれていました。
つらいことも
多いことと思いますが
表に出さず
いつも笑顔で明るく
人の話は目を見て
ちゃんと聞いてください。
明、昨日また怒っていたね。
ファンの人は
よく見ていますよ。
ささいな事で
好きになったり
嫌いになったりしますよ。
一言一言に気持ちを込めて
言葉に大切にしてください。
傷つけるのも
勇気や元気を与えるのも
言葉やから
それを仕事にしたのだから
良いほうに使ってください。
優しい時間が流れ
ほっとするような
仕事をして下さい。
お願いします。
こうした母親の
生きる姿勢やアドバイスが
芸人として成長する中での
「道しるべ」
となり明さんを支えてくれました。
母親が
息をひきとる瞬間も
ラヴィットの放送中は
笑顔で明るく気丈にふるまった
明さんは
母親にとって
自慢の息子にうつったことでしょう。
さて私たちの身の回りには
同じように「道しるべ」を大切に
過ごされている方も
少なくありませんね。
代表的な
「道しるべ」としては
次のようなものが知られています。
・両親の教え
・尊敬する人物(メンター)
・偉人
・自分がなりたいと思う理想の人
・・・
私たちも自分にとっての
「道しるべ」があることで
・ヤル気や意識が高まる
・軸が定まったり迷いが少なくなる
ことから
より良い充実した
人生につなげていきたいですね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 出川哲郎さん(リアクション芸人) [芸能人 (男性)]
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ブレないで
自分の決めた道を
続けていこう・・・
============
男性タレント
CM起用社数が
常に
上位にランキング
されるなど
老若男女を問わず
愛されキャラとして
国民的な人気をほこる
『出川哲郎』
さんの言葉です。
出川さんは1964年
横浜で3代続く
老舗の海苔問屋の
次男として
この世に生を受けます。
かねてから役者志望だった
出川さんは
劇団での活動
映画への出演
などあるものの
伸び悩んでいた
26歳の時
ウッチャン・ナンチャンが
司会をつとめる番組で
ジェットコースターに
のりながらクイズに答える
企画での
リアクションが
お茶の間の大爆笑をさそうと
これがきっかけとなり
次第に体当たりでの
仕事が舞い込むように
なってきます。
ようやく
自分の活きる道が
見えてきたと
喜んでいるなか
出川さんの
人生にも大きな
逆風が訪れます。
それは
出川さんに対する
あまりにつらい
誹謗中傷
さらには
街中を歩いていると
モノを投げつけられたり
ときには
「横浜の恥」とまで
言われる始末。
そして
抱かれたくない芸人№1
の悪しき称号まで。
それでも
自分のリアクションで
喜んでくれる人がいると信じて
リアクション芸人の
道を歩み続けていると
今度はその誹謗中傷が
家族にまで及ぶように
なっていきます。
実家の営む海苔問屋では
わざと聞こえるように
出川の海苔か~
恥ずかしくて
食べれんな~
自分のことであれば
我慢もできるも
なぜ家族にまで・・・
くやしくて
涙が止まりません。
恥ずかしい思いをさせて
本当に申し訳ない
母親に深々と
頭を下げると
母親からは
次のような言葉が
返ってきました。
どんなジャンルだろうと
日本一はすごいことだ
哲っちゃん
胸を張れ!
リアクション芸人として
ブレずに生きていく
覚悟ができた瞬間でした。
出川さんのことを
天然キャラだと思っている人が
多いのではないでしょうか?
トークバラエティー番組の
出演が決まれば、
隙があれば
トークのエピソードを
本番直前まで
考え続けるなど
とにかく
「面白い」ということに
とことん貪欲に
生きていらっしゃいます。
リアルガチ
リアクションへのこだわり
リアルの最上級
強い気持ちと
日々の行動の積み重ねで
今の地位を
獲得してきたのですね。
汚れ役、嫌われ者から
今のような人気者への変化が
起こり始めたのは
40代後半あたりから
そんな出川さんにとっての
唯一の後悔は
最愛の母親に
人気のある出川さんを
見せられなかったこと
リアクション芸人など
人が痛がる様子を笑う
番組への批判
親友、上島龍平の
悲しい出来事
などを乗り越えて
これからも
リアクション芸人として
ブレずに
前に進んでいくと語られている
姿がとても印象的です。
私たちも
自分がやりたいことを
ブレずに
突き進んでいきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 花江夏樹さん(声優) [芸能人 (男性)]
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自分らしく
挑戦していく…
============
世界中で猛威をふるう
コロナ禍にあって
まさに今の時代を反映した
ストーリー展開に加え
声優たちの一体感と
その演技のうまさに
多くの人々が思わず感情移入。
2020年最大の話題と
なっている
アニメ 鬼滅の刃
で炭治郎役を演じている
声優
『花江夏樹』
さんの言葉です。
花江さんの
これまでの人生を
振り返り
大切にされている
「あり方」「生き方」
について学んでいきましょう。
花江さんは
1991年神奈川県生まれ
その後
県内の進学校に進みますが
勉強についていくことができず
高校卒業後は進学をせず
就職することを決意
得意だった歌をいかして
歌手になることも夢見ましたが
いろいろと
就職先を探す中で
声優
という仕事があることを
知ります。
こんな花江さんのことを
ご両親は、
他人は他人の生き方がある
花江さんには花江さんらしい
生き方をしてほしいと
声優の夢を
一生懸命応援してくれて
いたようです。
とはいうものの
生まれ育った実家は
経済的に厳しい環境
声優志望者は
専門学校に通うのが
当たり前とされていた中、
数百万円の授業料は
とうてい払えないために
アルバイトをしながら
独学で声優の道を目指します。
日々自分で
トレーニングを続ける中
母親のアドバイスを受けて
自分の声を吹き込んだ
デモテープを
尊敬する
山寺宏一さんの所属事務所に
送ったところ
これが社長の目に留まり
高校に通いながら
事務所預かりの道を
切り開いていきます。
しかし
高校時代のある日
花江さんの人生に
大きく影響を及ぼす
出来事が起こります。
それは
自分のことをいつでも
応援してくれていた
母親の早すぎる死
3日3晩泣き続けます。
さらにその数年後には
父親の死
祖母の死
現在、声優として
その演技力が
高く評価されている
花江さんですが
大切なものや人が
自分の前から
なくなってしまう
シーンやセリフでは
母親の死の場面を
いつも
頭の片隅に置きながら
演じていらっしゃるそうです。
過去の悲しくつらい体験も
こうして自分の力に変えて
いらっしゃるのですね。
また声優業は
どんなに人気が出ようとも
つどオーディションで
新しい仕事を獲得する
ことになります。
そんなときに
花江さんが大切にしている
ことは
その役をゲット出来たら
人気がでそうだから
ギャラがよさそうだから
という視点ではなく
自分の魅力が
一番響く役柄か?
無理なくいろいろな表現を
演じられそうか?
声優という仕事も
競争も激しく
演技力に加えて
突然アドリブが
求められることも
少なくありません。
過去の経験も含めて
自分らしさを発揮できる
こんなことを
大切にされているのですね。
花江さんはこれまでの
オーディションを振り返り
次のように語られています。
どちらかというと
陰鬱なタイプの主人公役
で合格することが多い
それはそもそも
自分が人間的な暗さをもっていて
それがそのままでやすいのでしょう。
人見知りで
人の前に出るのが
大の苦手だという
花江さんですが
それすら
自分のマイナス面に
フォーカスするのではなく
プラスにとらえて
日々頑張っていらっしゃる
のですね。
さらに花江さんは
決して得意分野ではありませんが
ラジオや テレビのMCなどにも
チャレンジをされています。
まさに瞬発力が問われる
これらの経験が
声優という仕事に
活きてくるからです。
さて皆さんは
いかがでしょうか?
他人との比較ではなく
自分らしさに目を向けてみると
どんな点が挙げられますか?
そしてその自分らしさを
磨くために
これからどんなアプローチを
していきますか?
こちらをクリック頂ると幸いです。
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今週の名言 : 萩本欽一さん(コメディアン) [芸能人 (男性)]
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明日に向かって、
頑張ろう!
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「視聴率100%男」
と称されたTV界のレジェンド
“老い”(78歳:2020年)と
闘いながら
今なお笑いを追い求める
希代のコメディアン
『萩本欽一』
さんの言葉です。
現在のお笑いブームの
走りとも言われる
坂上二郎さんとのコンビ
コント55号が
日本国民から
絶大な支持を集める中
スター誕生
欽ちゃんのドンとやってみよう
オールスター家族対抗歌合戦
欽ドン良い子悪い子普通の子
欽ちゃんのどこまでやるの
ぴったしカン・カン
仮装大賞 など
最高視聴率が
30%を超える
人気番組の
司会者もつとめてきた
まさにTV会の
レジェンドといっても
過言ではない
欽ちゃん。
しかしその生い立ちは
決して順風満帆な
ものではありませんでした。
戦後
父親がカメラ製造の
事業に失敗
当時住んでいた
ボロボロの家に
頻繁に
借金取りが押し掛けてきます
欽ちゃんには
今でも決して
忘れることのできない
光景がありました。
それは
玄関で深々と土下座する
母親の姿
中学生のとき
そんな母親の姿を見て
涙がポロポロと
こぼれ落ちてきます。
これが
ずっと続くのはイヤだ。
あ~お金を稼がないと…
僕がなんとかしないと…
大きな家に
お母さんを住まわせて
あげたい。
そんな想いから
大きく稼げる仕事として
コメディアンの道を
目指すようになります。
しかし当時の欽ちゃんは
今となっては想像もつきませんが
極端なあがり症。
コメディアンの修業を積み始めて
3か月がたったころ
初めて舞台にたつチャンスを
頂くも
緊張のあまり
覚えたはずの言葉がでてこず
大失敗
まわりからは
才能がない
このまま続けても
時間のムダから
早く諦めたほうがいい
と説得されます。
それでもあきらめることなく
修業を積み重ねていくと
努力のかいあって
初めてTVCMのチャンスを
頂きます。
今度こそは
しっかりとセリフを暗記して
成功させよう
と意気込むも
またしても緊張のあまり
大失敗
欽ちゃんは当時のことを
次のように振り返っています。
僕がまわりから
「才能がない」
と言われながらも
コメディアンになるのを
あきらめなかったのは、
自分に悪いと思ったから。
そして
母親を幸せにしたかったから。
一度は
「絶対コメディアンになる」
と決意したわけだからね。
簡単にあきらめちゃったら、
そう決断したときの自分に
申し開きが立たないでしょ。
その後も
周りと比較すると
ときに亀のようなスピードでの
成長だったかもしれませんが
自分は自分と
地道にコツコツと
修業を積み重ねていきます。
そして更には
あがり症のため
セリフがでてこないという
弱点を逆手にとって
セリフを覚えるのではなく
全てアドリブでいこうと決意
すると
他にない斬新さが
うけて
次第に欽ちゃんブランドが
醸成されていき
TV界のレジェンドへと
昇りつめていきます。
さて皆さんはいかがでしょうか?
周りと比較して
自分には○○がないから
という理由で
自分の夢や挑戦を
簡単にあきらめたりしていませんか
周りは周り
自分は自分
ぜひ皆さんも
欽ちゃんのように
自分らしさに磨きをかけて
自分の夢を実現させて
いきませんか…
下のボタンをクリック頂けると幸いです。
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