今週の名言 : 土井善晴さん(料理研究家) [その他]
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家庭料理は、
ええかげんでええんです・・・
===============
日常の食事は
ご飯と具沢山の味噌汁で十分
味噌汁は出汁をとらなくてもいいし
具材には何を入れたっていい
発行部数30万部を超える
ベストセラー
『一汁一菜という提案』
読んで気持ちが楽になった
人生を共にする一冊に出会った
など
今なお多くの人々の
心を揺さぶり続けている
料理研究家
『土井善晴』
さんの言葉です。
土井さんは1957年
偉大な父親のもとに生まれます。
土井さんの父親は、
戦後の日本に「家庭料理」という
ジャンルを確立させると
テレビの普及とともに
有名人に。
その父親が立ち上げた
料理学校も大成功をおさめるなど
土井さんにとって
父親がとてもまぶしい存在でした。
そんな父親の姿を見ながら
ご自身は父親と同じ
家庭料理ではなく
プロの料理人として
生きていきたいという想いを
つのらせ
フランスへの留学後は
名店:吉兆で修業を重ねるなど
着々と
日本を代表する料理人への
道を歩み始めていました。
こうして自分の人生を
切り拓いていく中で
突然父親から
経営が苦しくなった
料理学校を
手伝ってほしいという
依頼が舞い込んできます。
土井さん自身
本音をいうと
プロの料理人として
家庭料理を下にみていたもの
やむなく
料理学校を手伝うことに。
しかしその後も
経営はうまくいかずやがて破綻。
父親も他界。
こんな自分の人生に
悔しさを感じつつも
このままでは終わりたくない。
せっかく家庭料理の世界に
入ったのであれば
他人にはない
自分ならではの家庭料理を
極めていこう!
こう心に誓うと
全国各地の生産者や
家庭の主婦のもとを訪れるなか
やがて自身の中で
とても大事なことに
気づくようになります。
人々の「日常」を支える
かざりけのない「家庭料理」こそが
命の要
家庭料理を下に見ていた
土井さんの気持ちが変わる
瞬間でした。
だからこそ
誰もがもっと気軽に
キッチンにたてる
たやすいレシピの
考案をしていきたい!
最近では
1人暮らしの若者向けの
無料動画配信なども行っており
多くの人に
もっと気軽に料理に
向き合って頂けるよう
さらに活動の幅を
拡げていらっしゃるそうです。
レシピに忠実に創る
単なる予定調和の 料理は
ある意味、 苦しくなってくる。
そもそも料理に失敗はない
作った人の想いが大事
・・・
料理を作る人の気持ち
料理を作るきっかけ
こうした
自分の想いをベースに
世の中の人々に寄り添った
専門性の深めかた
とても
共感が持てますね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 豊島雅信さん(焼き肉店従業員) [その他]
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弱さもみがけば
個性になる!
===========
海外のグルメガイドで
日本№1と評価される
3時間半待ちの
大行列ができる
この焼き肉店の名物は、
「日本一」
の呼び声高い
牛の内臓肉・ホルモン。
そのホルモンをもとめて
国内外から
一般客はもちろんのこと
料理人も足しげく通うほどの
おいしさを
引き出すその実力から
ホルモンの神様
と慕われる
『豊島雅信』
さんの言葉です。
豊島さんは昭和33年
精肉店を営む
両親のもとに生まれます。
2歳のときでした・・・
店にあった
ひき肉の製造機に
誤って手を入れ
右手の指を
失います。
生活するうえで
不自由を感じることは
なかったものの
学校に通うようになると
意識をせざるおえませんでした。
例えば、
本来であれば
楽しいはずのフォークダンス
周りの女子からは
「嫌だ」
「気持ち悪い」
「触るの嫌だ」
こうした屈辱の連続は
今でも脳裏に
しっかりと焼き付いています。
もう学校にはいきたくない。
そんな想いから
中学を卒業すると
就職することを決意
知人の口利きで
神戸のステーキ店を
紹介してもらうも
いざ働く段になると
「右手が悪い子は働けません」
と門前払い。
強いショック
やるせない気持ち
様々な感情が
湧き出てきます。
やむなく実家に戻り
精肉業の傍ら営んでいた
焼き肉店で働き始めます。
自分はこの世に
必要のない人間!?
仕事にも身が入らず
毎日遊びまわるように。
こんな日々が
15年続いたある日のこと
仕入れに訪れた食肉市場で
ある光景を目にしました。
カルビやロースなどが
次々と引き取られるその脇で
売れ残ったホルモンが
大量に置かれていました。
どこか
自分と重なって見えました。
俺も
このホルモンみてえなもんだな。
この世から
半分は脱落したような自分
この日から
ホルモンを買い取っては
売るために工夫を
来る日も来る日も重ねます。
雑味やにおいを
取るための洗い方
舌触りを
良くするための
刃先の入れ方
15時間/日
左手一本での仕込み
それでも売れない
日々は続きますが
もうあきらめたくは
ありませんでした。
やらないうちから
できないなんて
言うのはやめよう!
捨てるのも、
拾うのも、
自分
こう自分に
言い聞かせながら
試行錯誤を続けて
数年後
ぽつりぽつりと
地元では見かけない客が
店を訪れるようになります。
それから30年
今では豊島さんの
ホルモンを求めて
連日、
お客さんが訪れてきます。
豊島さんは
ご自身の人生を振り返り
次のように語られています。
若いときは、
自分の右手が憎くて
しょうがなかった
そう思ってたのに
今では反対に
この右手があったから
今の俺がある
感謝している
この右手に感謝している
この右手がなかったら
ここまで
こうして
焼肉道
に邁進してこれなかったと思う。
誰にでも存在する
自分の弱さ
こうした弱さも
自身の行動の原動力に変えて
日々一歩ずつ
未来に向かって
歩み続けてきた
豊島さんの生き方
とても素晴らしいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : KUNIKAさん(クッキーアーティスト) [その他]
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「こんなはずじゃなかった」
って笑うような人生が楽しい!
===============
9年前から、
趣味で始めた
クッキーアートを
SNSにアップし始めると
たちまち話題となり
インスタグラムのフォロワーは
10万人を超え、
サンリオなど
大手企業からのオファーも
殺到する
クッキーアーティスト
『KUNIKA』
さんの言葉です。
KUNIKAさんは
1989年千葉県の生まれ
3歳から水泳を始めると
メキメキと実力を磨き
中学時代には
ジュニアオリンピックに
出場するほどに成長します。
しかし自分の実力では
水泳では食べていけないと悟り
水泳をスパッと辞めると
高校時代には
ひょんなきっかけから
高飛び込みを始めます。
高い所だと
10mもの高さから
命綱もなしに
プールに飛び込むこともある
危険を伴う競技
ときに
「何でこんなことやってんだろう」
と思いつつ
「だから人生って面白いな」
と想像のつかない人生を
楽しむような生徒でした。
中学1年生の職業体験で
行ったケーキ屋さんで
自作した
デコレーションケーキを
家に持ち帰ったところ
お母さんと祖母が
とても喜んでくれた経験が
忘れられず
高校卒業後は
日本菓子専門学校で
お菓子作りの基礎を学ぶと
その後20歳で
マンダリンオリエンタルホテル東京
でパティシエとしての
道を歩み始めます。
しかし
当時休みを利用して始めた
ダイビングにはまると
22歳の時に
ホテルでの仕事をスパッと辞めて
何のあてもなく
突然、沖縄に移住。
周りからの
「お前、大丈夫か!?」
の言葉も気にすることなく・・・
石垣島の沖縄料理屋で
住み込みで働いたり
古着屋で働いたりする中で
趣味で始めた
クッキーアートを
SNSで発信すると
大きな共感を呼び
大手企業からのコラボ依頼
個展の開催
書籍の販売
・・・
一躍、
脚光を浴びるようになります。
まさに
想像がつかない人生ですね。
こうした生活を
数年間送る中で
好きで始めた
クッキーアートなのに
仕事として活動していると
ときおり
嫌いになりそうな瞬間があり
本当に自分が
作りたいものって何だろう?
自分を見失いそうになると
クッキーアーティスト
としての活動をスパッとやめて
今度もまた
何をするかも決めず
突然、
イギリス・ロンドンへ
拠点を移すことを決意
今では
ロンドンの三ツ星レストラン
「sketch(スケッチ)」で
アフタヌーンティーの
スイーツを提供する
パティシエとして
活躍をされています。
そして現地で知り合った
アルバニア人の男性と結婚
様々な価値観を学びながら
楽しい日々を過ごす中で
改めて
自分がやりたい
クッキーアートの
チャレンジを
再開されています。
この先どんな世界が
広がっていくのか
想像がつかない
楽しさがある
と言われています。
最後に
そんなKUNIKAさんが
若い方々に向けて
発信されている内容を
ご紹介して
終わりにしたいと思います。
49%の不安があっても
51%の楽しみがあれば
それでいい。
最初の一歩は
いつでも誰でも
何歳になっても
怖いものです。
でもその一歩を
踏み出さなければ
何も始まらないし、
その先の世界を
見ることは一生できません。
行動しなければ
奇跡も起きない。
夢も叶わない。
歯車を回すのは自分。
舵を切るのも自分。
失敗してもそれは経験で、
そこから学んで、
また挑戦すれば良い。
やらなかった後悔よりも、
当たって砕けたほうが
ずっと気持ちが良い。
周りの環境や人の声、
様々な壁が立ちはだかっても、
ほんの少しの勇気を出せば
案外世界はとてもクリアで、
追い風も吹くものです。
せっかくの
一度きりの人生なら、
沢山の奇跡を手繰り寄せて、
ドラマチックに生きていけたらと、
私も日々悩んだ時は
自分に言い聞かせています。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 右近由美子さん(おにぎり店女将) [その他]
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おにぎりとは
心と心をつなぐもの
============
日本一の呼び声高い
その味を求めて
常連のサラリーマンから
家族連れ
果ては
スーツケースを抱えた
旅人までが
「おにぎり」の聖地として
全国から訪れる超人気店。
食事時でなくても
雨が降ろうとも
行列の絶えない
おにぎり専門店
「ぼんご」の女将
『右近由美子』
さんの言葉です。
由美子さんは
1952年新潟県の生まれ
食事の礼儀作法
湯のみの持ち方
靴の脱ぎ方
敷居のまたぎ方
ゴミの捨て方
さらには
女に勉強は必要ない
など
とにかく
至る所に厳格な父親と
そりが合わず
19歳の時に家出をし
紙袋1つだけを持ち
上野にたどり着きます。
お金もない
寝る所もない
そんな状況の中で
飛び込みで仕事を探していると
なんとか
住み込みでの喫茶店の
仕事にありつきます。
しかし
東京での食事が口に合わず
母親の味が懐かしい
おいしい白米が食べたい
いつもそんなことを
考えていた時に
友人に今のお店である
「ぼんご」
に連れていってもらうと
あまりにもの
おいしさに感動して
涙がこぼれそうになった
そうです。
その後、
「ぼんご」を経営されていた
ご主人と結婚
それからは
「ぼんご」のお客さん
としてではなく
女将として
お客様に感動を与える
おにぎりの研究を重ねます。
お昼前のオープンにあわせて
朝7:00~ 仕込みを始めます。
おにぎりに使う
具の多くは手作り
どれだけ手間をかけたかが
そのまま味にあらわれるから。
1番人気の鮭は
脂ののった紅鮭を使い
指先でていねいに
フワッとほぐしていきます。
生卵を2日間冷凍したのち
卵黄部のみを取り出して
醤油漬けにすることで
人気の具材として
高い評価につながっています。
ご飯の炊き方蒸らし方にも
こだわりをもち
1粒1粒にふっくらと
仕立てていきます。
そして
おにぎりを握るのではなく
ふわっとまとめることで
おにぎりを
手にとってもこわれず
口の中で
はらりとほどける
やわらかさを醸し出しています。
現在の具はなんと57種類
さらに1つのおにぎりで
3種類まで組み合わせ可能
こうした具材の組み合わせも
実はお客さんからヒントを頂くことも
あるようです。
これまで
お客さんの笑顔のために
との想いで
試行錯誤を繰り返しながら
おいしいおにぎりを提供することを
考え続けてきた由美子さんですが
メニューアイデア以外でも
お客さんから 頂くことの方が多い
と言われています。
「美味しかったよー」
の言葉とともに
満面の笑みを向けてくれる
お客さんを見ていると
こうしたお客さんが
いてくれるお陰で
由美子さん自身も
仕事ができているし
もっともっと
お客さんの笑顔が見たいという
想いが湧きあがり
さらに自分の成長を
後押ししてくれる。
まさに冒頭の言葉
おにぎりは心と心をつなぐもの
ですね。
2022年9月時点で
70歳の由美子さん
もっともっと
お客さんに喜んでもらおうと
長年続けてきた店をたたみ
10月に新店を オープンさせるとのこと。
この年齢でのチャレンジ
本当に素晴らしいですね。
こうしたお客様のためにの想いが
お客様からの応援と勇気を頂く
原動力になっている様子が
とてもよく伝わってきます。
私たち1人ひとりの
日々の生活も同じことが
言えそうですね。
お客様のために
大切な人のために
こうした気持ちを
これからも大切に
し続けていきたいですね。
TVでも取り上げられていました。
約1分後あたりから始まります。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 和泉希洋志さん(カレー料理人) [その他]
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周りの評価ではなく
自分にとって
楽しい生き方をする
=============
ここ数年
巷を騒がせている
スパイスカレー
多くの日本人が
イメージする
小麦粉を使った
昔ながらのカレーとは
一線を画し
食欲をそそる
官能的な香りに
人々を虜にする
刺激的な味わいが特徴
そんなスパイスカレーの
聖地と言われる大阪にあって
ミュシュラン
「ビブグルマン」にも
選出実績があり、
「食べログカレー百名店」で
2017年から2022年連続受賞
というカレーの名店
「SOMA」の店主
『和泉希洋志』
さんの言葉です。
和泉さんは
1968年香川県の生まれ
実は・・・
幼少の頃から
自分自身に対して
強い「コンプレックス」を
抱きながら生きてきました。
それは
人と話すのが苦手
コミュニケーションが苦手
ということ。
俺の人生
どうなっていくんだろう・・・
ときに思い悩むことも
あったそうです。
しかしご両親からの
豊かな愛情を受け続ける中で
自分の苦手な部分に
目を向けるのではなく
自分のやりたいこと
やらずにはいられないこと
を見つけて生きていくと
きっと
幸せな人生が歩めるはず
だという意識が
少しずつ 醸成されるように
なっていきます。
幼稚園から絵画を習い
中学で音楽に目覚めます。
大阪芸術大学に進学すると
有名美術雑誌に取り上げられたり
展覧会の依頼も殺到
音楽の活動では
著名ミュージシャンに認められ
英国の
インディーズレーベルから
CDを発売
芸術家として
音楽家として
今でも
やりたいこと
やらずにはいられないことで
満ち溢れた日々を
過ごされています。
そんな和泉さんが
カレー店を始められたのは
40歳の時
たまたま行っていた
アルバイトで
スパイスに興味を持ち
自身でカレー制作に
没頭するようになります。
そして2011年
東日本大震災を機に
自身の表現の場として
「SOMA」
を立ち上げられています。
お店の営業は
12時~15時までの3時間
開店前には
お客様が列をなし
売り切れごめんのスタイルで
15時前には店を閉めると
すぐさま
自分の芸術活動・音楽活動に
没頭する日々
自分のやりたいこと
やらずにはいられないこと
ができている毎日は
とても充実していて
生きている実感を
感じると語られています。
他人の価値観で生きる
Have to の比率よりも
自分の価値観で生きる
Want to 比率を高めて
和泉さんのように
自分らしい
人生を歩んでいきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 間渕則文さん(救急医) [その他]
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自分のやりたいことを
ひたむきに・・・
=============
「助かる命を救いたい!」
強烈な信念のもと
ご自身が50歳の時に
岐阜県中津川市で
日本で初となる
乗用車型ドクターカーの
運用を開始。
これまで
5,000件もの
出動要請にこたえ
たくさんの命を
救い続けてきた救命士
『間渕則文』
さんの言葉です。
間渕さんは
1958年名古屋市の生まれ
開業医だった祖父
薬剤師だった両親
といった家庭で育つなか
自身も医師を目指すようになり
名古屋市立大学医学部を
卒業すると
同大学病院の
麻酔科とICUに勤務
救急医療を志した
30代のとき、
救命センターへ搬送中の
9歳の男の子が
亡くなる姿を目の当たりにし
「医者が病院で
待っているだけでは駄目だ」
という想いを強く
抱くようになります。
その後40代となり
研究の一環として
ヨーロッパを巡っていた時に
ドイツで乗用車型の
ドクターカーに出逢います。
医者が病院で待つだけではなく
医者がみずから車を運転して
現場に駆けつけ
現場から治療を開始
するという
まさに
間渕さんが
ずっと探し求めてきた
モデルがそこにありました。
ただし
日本では法律の規制
税負担の増える住民の理解
などもあり
これまで
まったく前例のないことでした。
通常の医師であれば
本当はやりたいんだけど
前例がないから
やっぱり無理だなと
あきらめてしまいそうですが
間渕さんは 違いました。
その背景には
自分の大好きで尊敬する
祖父の存在がありました。
祖父は70歳まで
開業医として仕事を続けると
その後その病院は
身内に任せ
ご自身は
静岡県の無医村に
入って
診療活動を
始めたのです。
それを目の当たりにしてきた
間渕さんは
自分も
祖父のように
「やりたいことをやる」
常々こうした気持ちを
抱いていたそうです。
医療関係者が
業務として一般道を運転しても
よいという法改正
さらには市議会での
プレゼンテーションを重ね
市民の共感も頂きながら
プラスの税負担を獲得
こうした甲斐もありその後
驚くことに
それまで3%しかなかった
中津川市民の救命率が
今では19%にまで
達しています。
参考までに
救命率の全国平均は12%
施設の整っている東京でも18%
いかにこの数字が
素晴らしいかが伝わってきます。
チームで
9日勤務5日休みシフトをとり
365日×24時間体制を整えています。
間渕さん自身も
9日間の出勤時には
いつ呼ばれていいように
病院のすぐ近くに寝泊まりし
食事はスキマ時間で
作り置き
トイレはドアを開けたまま
お風呂も週に1回短時間
お昼などの外食は必ず先払い
体力をおとないよう
筋トレをかかさず
夜中の呼び出しにそなえて
夜9時にはいったん就寝
こうした方々の
活動のお陰で
救命率19%が
実現できているんですね。
ストレスのたまる
9日間の勤務を終えると
休みの5日間は
実家に戻り
大好きな90代の
母親の作る
カニクリームコロッケに始まり
大好きなお酒や
大好きなクラシックカーを
楽しむなど
リラックスすることを
大切にされているそうです。
◆自分のやりたいことやる
◆オンとオフの切り替えを行う
間渕先生の
こうした生き方は
ぜひ私たちも
学び実践していきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 北村麻子さん(ねぶた師) [その他]
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前例がないなら
自分でつくればいい・・・
=============
東北三大祭の1つで
国指定重要無形民俗文化財
でもある
「青森ねぶた祭」
街を練り歩く
大型ねぶたは
幅9m・奥行7m・高さ5m
世界最大の
「ペーパークラフト」とも
呼ばれています。
2022年現在
14名存在するねぶた師の中で
唯一無二の
女性ねぶた師として
活躍されている
『北村麻子』
さんの言葉です。
麻子さんは1982年
青森県生まれ
地元の
公立高校を卒業すると
神社の巫女
接客業など
様々な仕事を行うも
なかなか自分にあっている
仕事が見つからない日々
20代半ばになったとき
「このままじゃダメだ」
と真剣に自分の生き方について
考えるようになります。
「たった一度の人生、
自分が好きなこと、
得意なこと、
を仕事にしたい」
こんな想いが強くなり
アート・デザイン関係の
仕事を探しますが
残念ながら見つからず。
そんなときに
第6代名人ねぶた師である
父親が足を悪くして
ねぶた師を
止めざるおえないのでは
といった状況に陥ります。
それでも
必死になって頑張り続ける父親
なんとそんな状況のなか
その父親が2007年に
ねぶた師にとっての最高賞である
「ねぶた大賞」を獲得
どん底から這い上がる
父の姿を目の当たりにして
父の代で
ねぶたを終わらせてはダメだ
との強い想いから
この道に入ることを
決意します。
しかしねぶた師の仕事は
大量のハリガネで
巨大なパーツを制作
トンカチ、のこぎりを使って
土台を作り、
さらには高所作業も多いため
危険が伴います。
毎年、夏に開催される
ねぶた祭りに向けて
1年かけて
準備が必要なため
体力も忍耐力も必要なため
多くの方から
次のような言葉を
頂きます。
前例がない、
女性には無理だ、
やめておけ、
・・・
それでもこうした
周りからの反対を
押し切り
25歳の時に
父親のもとに弟子入りします。
その後、
29歳のときに独立して
ねぶた師としての活動を開始
この道に入って5年目に
初めて最優秀賞を
獲得さするまでに成長。
元来、ねぶたは
男性的な力強さを
表現することを
求められてきました。
それでも麻子さんは
これまでの歴史を
大切にしながらも
自分の創りたいものを
素直に創って勝負したい
これまでのねぶたにない
新しい流れを
私の手でつくっていきたい
見てくれる人に
「私ならでは」のねぶたで
喜んでもらいたい
一緒にねぶた作りに
協力してくれるスタッフも
楽しみながら
ねぶたを作ってほしい
そんな幸せを感じたい。
日々こんな想いを抱きながら
活動を積み重ねています。
こうした麻子さんの
◆「自分らしさ」で勝負
◆前例は自分で作ればいい
考え方・あり方、とっても素敵ですね。
限りある人生
私たちも
麻子さんのような
生き方をしていきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 高嶋ちさ子さん(ヴァイオリニスト) [その他]
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自分の人生を
否定しない・・・
========
思ったことを
包み隠さずサバサバと伝える
その物言いに
批判・避難を
浴びることもある一方で
見ていて気持ちがいいと
老若男女問わず
熱烈なファンも多く
年間100本の演奏会に加え
テレビ出演など
大活躍されている
人気ヴァイオリニスト
『高嶋ちさ子』
さんの言葉です。
ちさ子さんは
1968年東京都の生まれ
父親は
元音楽ディレクター
そして
その父親の兄が
高島忠夫さんとなります。
高校・大学は
東京都調布市にある
日本を代表する
音楽を専門に学ぶ
桐朋女子高校音楽科
桐朋学園大学
その後
イエール大学音楽学部
修士課程を卒業。
1997年から
日本で音楽活動を
始められています。
ヴァイオリニスト
音楽家
と聞くと
一般的には
名門の楽団に入り
国内外で
格式高い演奏活動を
行っているように
感じてしまいがちですが
ちさ子の音楽活動は
こうしたものとは
まったく異なり
コンサートが
初めてという方も含めて
音楽経験の
少ない方々に向けて
リラックスして
楽しんでもらいたい
ということに
こだわっています。
だからこそ
誰もが知っているような
曲を選び
1曲の演奏時間は
5分以内
ときに
ちょっとした
パフォーマンスや
笑いもいれる工夫なども
されています。
もともと
音楽を専門に
学んできたからには
高名な楽団に入り
格式高い演奏を行うことを
目指されていたことと思いますが
この領域で
自分の活躍できるフィールはないと
判断され
そんな自分の人生を
決して否定するのではなく
自分らしい音楽活動
自分がやりたい音楽活動
をしていきたい
ということで
今のようなスタイルを
とられています。
実はちさ子さんには
お姉さんがいらっしゃいますが
幼少の頃から
ダウン症に向き合って
いらっしゃるとのこと。
幼い頃、
ダウン症が理由で
いわれのない言葉を
浴びせられる姉のことを
守るために
ちさ子が必死になって
そんな周りの人たちに
立ち向かっていったそうです。
包みかくさず発言する
今のありかたには
もしかしたら
こんな背景もあるのかも
しれません。
そして
こうした家族環境
こうした生き方
を通して
大切にされている
モットーがあるそうです。
それは小学生の時に
CMでみたキャッチコピー
大統領のように働き
王様のように遊ぶ
年間100件のコンサート
テレビ出演
その他の様々な活動
とても忙しい日々を
送りつつも
1年間の一定期間は
きっちりと休みを取り
自身で稼いだお金で
旅行などトコトン遊ぶ
まさにキャッチコピーどおり
メリハリのある生き方ですね。
一見、
とても豪快に見える
ちさ子さんですが
周りに人達からの
ちさ子さん評は
真面目・努力家
という言葉がでてきます。
これまでの人生の中でも
自分の思うように
いかないことがあっても
自分の人生を
否定するのではなく
自分らしくを大切に
生きている
ちさ子さんの姿に
共感を覚える人も
きっと
少なくないでしょう。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 銘苅春政さん(三線職人) [その他]
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心の持ち方
健康
技…
========
彼が作る三線(さんしん)は
人間国宝の三線奏者にも
愛用者が多く
沖縄古典音楽に
携わる者には憧れの1本
2022年までの
64年もの職人人生で
7000本以上を
世に送り出してきた
三線職人
『銘苅春政』
さんの言葉です。
銘苅さんは
1934年沖縄県の生まれ
2022年現在88歳
大工をしていた父親の
仕事を手伝っていると
その手先の器用さが
目に留まり
三線づくりをしてみないかと
親戚にさそわれたことが
きっかけで
この道に入ります。
7年間の修業の後
24歳の時に独立し
それ以降
現在まで64年間
三線づくりに
没頭されてきました。
三線の中でも
最も重要なのが
竿の部分
三線に適した
琉球黒檀が手に入ると
ていねいに時間をかけて
ゆっくりと乾燥させていきます。
長い場合では
30年もの間乾燥することも
あるそうです。
こうして乾燥させた材料を
自身の目と指先の感覚だけで
ていねいに
仕上げていきます。
髪の毛よりもうすい
ミクロ単位の調整の有無によって
芸術品としての美しさ
楽器としての音色
などが
大きく 異なってくるほど
繊細だそうです。
こうして生まれてくる
三線は
1本100万円を超えるほどで
現在でも多くの人に
その完成を
待って頂いているようです。
そんな銘苅さんにとっての
忘れらない体験として
戦争があります。
もしからしたら
現在の若い方の中には
つい50年ほど前まで
戦争でアメリカに負けたため
沖縄が
アメリカの統治下にあったことを
知らない方も
いらっしゃるかもしれません。
そんな銘苅さんの
代表的な言葉を
いくつか
ご紹介していきたいと
思います。
平和が大事!
戦争とは結局
人間の欲望の表れ
つまりは
人間一人ひとりの
心の持ち方が大事
情が大事!
情に厚い人は
自分が自分がという欲望ではなく
他人を思いやる
気持ちと行動ができる人
子供が転んだら
大丈夫?と声をかける人と
知らんぷりして通り過ぎる人
ゆずりあいの心の
ある人とない人
健康が大事!
2022年現在
銘苅さんの母親は112歳
銘苅さんは88歳
こうして
年齢を重ねていると
やはり健康だから
自分の大好きな
三線づくりに没頭できる
健康でないと
恐らく楽しくない日々を
過ごすことになってくる
そして健康とは
体はもちろん心の健康もしかり
心の持ち方
人間の情
そして
技が大事!
技というと
誰にも真似できない
すごいものでないと
いけないと思う必要はなく
世の中のあらゆる人に
必ずある
自分とっての
得意な領域のこと
心の持ち方
健康
技
こうして3つの視点から
自分自身を見つめてみると
より意識を
高めていきたい部分が
見えてきたりします。
健康のために
規則正しい生活をする
技を磨くために
知識や体験を増やしていく
心の持ち方を整えるために
良い言葉をたくさん聞いて
たくさん発信する
自分なりの方法で
肩ひじ張ることなく
自然体で
心の持ち方・健康・技
を磨き続けていきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : MOZUさん(ミニチュアアーティスト) [その他]
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できない所を見つけるのではなく
できる所を褒めよう…
================
彼がてがける
ミニチュア作品は
他の誰にも
真似できないほどに
細部にまで
こだわりつくし
その精緻な仕上がりに
見る人が強い感動を
抱くいっぽうで
なんとなく
懐かしさを感じたり、
「あるある!」
と思わずうなずいてしまう
ユーモアが
たくさん仕込まれており
今では日本を代表する
超人気ミニチュアアーティスト
『MOZU』
さんの言葉です。
Twitterフォローワー29.8万人
Instagramフォロワー29.2万人
YouTube登録者数43.2万人
(いずれも2022.4.20現在)
これらの数字からも
MOZUさんの人気ぶりが伺えますね。
では実際に
どのような作品を
どのようなプロセスで
作っているのかを
再生回数が2,400万回を超える
以下の動画で確認してみましょう。
ノートや教科書
毎週たまるマンガ雑誌
室外機
ゴミ箱
タンス
・・・
こうした作品を仕上げるのに
数か月の歳月を
費やすことも 少なくないそうです。
こんなMOZUさんは
1998年東京都の生まれ
父親の影響を受けて
幼少の頃から
絵をかくのが
大好きだったようです。
一方で
授業中も授業そっちのけで
ノートに
絵をかいてばかりいたためか
成績の方はパッとせず
中学時代には0点のテストも
何度かあったとか。
そんなMOZUさんに対して
父親がかけた言葉
この0点のテストを
ちゃんと持ってくるお前は
素晴らしい
それはその
お父さんが以下のような
モットーを持たれていたから
僕は絶対に
できないところを
見つけるんじゃなくて
できていることを
とにかく褒める
素晴らしいですね。
そんな中
やがてミニチュアづくりに
目覚め
高校一年で
自分の部屋をモデルにした
作品を制作
以来
リアルとユーモアが混在する
MOZUワールドを
次々と生み出していきます。
一方で
コマ撮りのアニメにも挑戦
アジア最大級の
映像コンテストで
新人部門の
最優秀賞を受賞されています。
こうして今では
コマ撮りアニメ
ジオラマ
トリックアート
という3つの分野で
マルチアーティストとして
活躍をされています。
そんなMOZUさんが
これからも大切にしていきたい
ことの1つとして
先ほど紹介した
父親のモットー
をあげて
いらっしゃいます。
できないところを
見つけるんじゃなくて
できていることを
とにかく褒める
これは他人に対しても
もちろんのこと
自分自身に対しても
そうありたいと
意識されています。
自分のできないことに
苦しみながらではなく
自分のできること
自分の好きなことを
楽しみながら
日々過ごしていく。
とてもいい 発想法ですね・・・
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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