今週の名言 : ナタージャ・グジーさん(歌手/パンドゥーラ奏者) [人気外国人 (女性)]
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今、
自分にできることを
やるのみ・・・
===========
60本を超える弦を持ち
5オクターブの音階を奏でる
母国ウクライナの民族楽器
バンドゥーラを巧みに演奏
またその澄み切った声は
水晶の歌声と評される
ウクライナ出身の
歌手/バンドゥーラ奏者
『ナタージャ・グジー』
さんの言葉です。
ナタージャさんは
1980年ウクライナの生まれ
これまでの人生は
苦難の連続でした。
6歳の時に
大好きな父親が
勤めていた
チェルノブイリ原発で
原発事故が発生
そこからわずか3.5kmの
ところに住んでいた
ナタージャさんも被爆。
避難生活をしながら
各地を転々とし、
キーウ(キエフ)に移住
まだまだ幼い
ナタージャさんにとって
辛く厳しい体験となりました。
その後8歳のときに、
「バンドゥーラ」と出会い、
チェルノブイリ被災者で
構成される音楽団に入団すると
1996年と1998年に
その一員として来日する
チャンスに恵まれます。
こうしたことが
きっかけとなり
20歳(2000年)になると
ある決断をされています。
それは
故郷ウクライナを離れて
日本で音楽活動を行うこと。
幼少の頃
チェルノブイリ原発事故を
経験し
毎日、
平和に暮らせるのは
決して当たり前のことではない
人生の中では
自分が予想だにしなかったことが
突然起こることもある
自分がやりたいこと
自分にできること
を精一杯やろう
との想いからです。
そんなナタージャさんが
日本で音楽活動を始めて
ちょうど10年が過ぎたころ
今度は日本で
信じられないことが
起こります。
東日本大震災と
福島の原発事故
チェルノブイリ原発事故で
厳しく辛い経験をした自分が
今、できること・・・
それは
歌って演奏すること。
音楽には
人に元気を与える
エネルギーがある
歌を届けたいという
使命感に駆られ
何度も何度も
東北を訪れています。
そして
2022年またしても
信じられない出来ことが
起こってしまいます。
ソ連による
母国ウクライナへの侵攻
毎日報道される
傷だらけの故郷
家族の安否への不安
あまりにも
悲しすぎて
泣いて
泣いて
泣き続ける中
泣いていても
何も変わらない
今、 自分にできること・・・
歌って
演奏することしかない
ウクライナ支援
チャリティコンサートツアー
をスタートさせて
47都道府県を回っています。
どのような境遇に
あろうとも
今、自分にできること
をひたむきに頑張る
ナタージャさんの生き方
とても
輝いて見えますね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 出川哲郎さん(リアクション芸人) [芸能人 (男性)]
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ブレないで
自分の決めた道を
続けていこう・・・
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男性タレント
CM起用社数が
常に
上位にランキング
されるなど
老若男女を問わず
愛されキャラとして
国民的な人気をほこる
『出川哲郎』
さんの言葉です。
出川さんは1964年
横浜で3代続く
老舗の海苔問屋の
次男として
この世に生を受けます。
かねてから役者志望だった
出川さんは
劇団での活動
映画への出演
などあるものの
伸び悩んでいた
26歳の時
ウッチャン・ナンチャンが
司会をつとめる番組で
ジェットコースターに
のりながらクイズに答える
企画での
リアクションが
お茶の間の大爆笑をさそうと
これがきっかけとなり
次第に体当たりでの
仕事が舞い込むように
なってきます。
ようやく
自分の活きる道が
見えてきたと
喜んでいるなか
出川さんの
人生にも大きな
逆風が訪れます。
それは
出川さんに対する
あまりにつらい
誹謗中傷
さらには
街中を歩いていると
モノを投げつけられたり
ときには
「横浜の恥」とまで
言われる始末。
そして
抱かれたくない芸人№1
の悪しき称号まで。
それでも
自分のリアクションで
喜んでくれる人がいると信じて
リアクション芸人の
道を歩み続けていると
今度はその誹謗中傷が
家族にまで及ぶように
なっていきます。
実家の営む海苔問屋では
わざと聞こえるように
出川の海苔か~
恥ずかしくて
食べれんな~
自分のことであれば
我慢もできるも
なぜ家族にまで・・・
くやしくて
涙が止まりません。
恥ずかしい思いをさせて
本当に申し訳ない
母親に深々と
頭を下げると
母親からは
次のような言葉が
返ってきました。
どんなジャンルだろうと
日本一はすごいことだ
哲っちゃん
胸を張れ!
リアクション芸人として
ブレずに生きていく
覚悟ができた瞬間でした。
出川さんのことを
天然キャラだと思っている人が
多いのではないでしょうか?
トークバラエティー番組の
出演が決まれば、
隙があれば
トークのエピソードを
本番直前まで
考え続けるなど
とにかく
「面白い」ということに
とことん貪欲に
生きていらっしゃいます。
リアルガチ
リアクションへのこだわり
リアルの最上級
強い気持ちと
日々の行動の積み重ねで
今の地位を
獲得してきたのですね。
汚れ役、嫌われ者から
今のような人気者への変化が
起こり始めたのは
40代後半あたりから
そんな出川さんにとっての
唯一の後悔は
最愛の母親に
人気のある出川さんを
見せられなかったこと
リアクション芸人など
人が痛がる様子を笑う
番組への批判
親友、上島龍平の
悲しい出来事
などを乗り越えて
これからも
リアクション芸人として
ブレずに
前に進んでいくと語られている
姿がとても印象的です。
私たちも
自分がやりたいことを
ブレずに
突き進んでいきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 二宮仁美さん(ドン・キホーテ デザイン 統括責任者) [ビジネスパーソン (女性)]
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自分なりの
気持ちの切り替えを
大切にする・・・
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2022年5月に
お台場にオープンして
話題となった
キラキラドンキをはじめ
ドンキホーテ全店舗の
デザインに関わり
外観や
プライベートブランドの
商品パッケージ
ホームページに至るまで
ほぼすべてのデザインに
携わっている
『二宮仁美』
さんの言葉です。
二宮さんは
1983年千葉県の生まれ。
漫画「ご近所物語」が
きっかけとなり
デザインに興味を抱くようになると
千葉大学工学部で
空間デザインを専攻
あるとき、
道頓堀店の観覧車デザイン
プロジェクトに携わることに。
これがドン・キホーテに
興味を持つきっかけとなり
そのまま ドン・キホーテに就職。
入社当時は
社内にはデザインを担当する
社員は一人もおらず
黄色と黒を基調にして
ただ目立てばいい
といった風潮が
あったようです。
街の住民からは
街の景観を損ねる
とのクレームを受けたり
だからといって
デザインの大切さを社内に
訴えかけても
デザインなんて
どうでもいいと
反論されたりなど
散々な状況でした。
それでも
ドン・キホーテを
単なる安売りのお店ではなく
エンターテイメント的な
楽しさのあるお店にしたい
もっともっと
街の人々に喜んで頂ける
店にしたいとの想いから
様々な活動を重ねるうちに
徐々に社内にも
デザインに対する理解が浸透し
今では
国内外500店舗以上ある
どのお店の1つとして
同じ外観の
お店はありません。
二宮さんは
こうして社内に
デザイン革命を
起こす一方で
女性社員の活躍の場を
広げる活動も重ね
今では
女性社員の憧れの存在に
なるなど
様々な変革を
起こし続けています。
しかし
そんな二宮さんの
社会人生活も
決して順風満帆だった
わけではありませんでした。
特に大変だったのは
出産後の育児と仕事の両立
どちらも100%
頑張ろうとするあまり
倒れて入院することに
こうした経験を通して
二宮さんの中で
人生・仕事・育児に対する
意識のあり方にも
変化が起こってきます。
育児と仕事の両立が
大変な時期は
仕事を
自分で抱え込むのではなく
部下や後輩を頼りにしよう。
今では
毎日、17時になると
机の上のものは
「すべてきれいに片づけて」
帰宅
ここで
一日の仕事へのけじめをつけて
気持ちを育児に切り替える
さらには
翌朝気持ちよく
一日をスタートできるように
との想いもあるようです。
また夜、お子さんを
寝かしつけるときには
お子さんが持ってきた
絵本を何冊であろうと
すべて
読んであげるのだとか。
これはお子さんが
日中もしかしたら
嫌なことなどが
あったかもしれない。
そんなときでも
夜眠りにつくときには
気持ちよく
満足した気持ちで
眠りにつかせてあげたい
こんな想いから
日々の習慣にされているそうです。
どんな人でも
ときに嫌な思いや不愉快な思いを
することもあります。
どんな人でも
心に余裕がない状態に
陥ることがあります。
そんなときには
二宮さんのように
自身の心に優しい
考え方や行動を
取り入れてみることで
よりよい状態に変化する
きっかけとなるかもしれませんね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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今週の名言 : 姫野和樹さん(プロラグビー選手) [スポーツ (男性)]
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大好きなラクビーを
続けられることは
当たり前ではない・・・
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2019年
初めて日本代表として出場した
ラグビーワールドカップ
タックルで
倒れた相手から
ボールを奪う得意技
”ジャッカル”で
幾度となく
日本のピンチを救い
その年の
流行語大賞にもノミネート
現在は、所属する
トヨタヴェルブリッツで
キャプテンを担う
『姫野和樹』
さんの言葉です。
姫野さんは
1994年愛知県の生まれ
両親、姉妹との
5人暮らし。
中学に入学すると
その体格の良さを高く評価され
当時のラクビー部の
顧問の先生から
勧誘を受けたことがきっかけで
ラグビー部に入部
何とそのタイミングで
将来、
ラグビーのプロになることを
自分に誓います。
すると
その後はメキメキと実力を磨き
中学在学中に
愛知県選抜に選ばれます。
しかし理由があって
合宿などへの参画を
辞退されています。
その理由とは
実家が「貧乏」だったから。
合宿に参加となると
数万円の遠征費が
必要となります。
当時の姫野家では
そのお金を払う
余裕がなかったのです。
6畳2間のとても古いアパートに
家族5人で住み
両親ともに
昼夜を問わず働くも
小学校の時には
給食費も払えず滞納
周りの友達が
駄菓子屋でお菓子を
買って食べているのを
横で眺めていることしか
できません。
こんな経済的に厳しい
状況の中でも
こうしてラグビーをやらせて
もらえていることは、
決して当たり前のことではなく
「有難い」こと。
将来、プロになる宣言は、
そんな両親、姉妹を
ラグビーでプロになって
お金を稼ぎ
幸せにしてあげたいという
中1の姫野さんの
心の底からの誓いだったのです。
その後も
実力を磨き続け
ラグビー名門校として
知られている
春日丘高校
帝京大学
トヨタヴェルブリッツ
と進化を
遂げられています。
そんな姫野さんですが
今に至るまでには
多くの失敗や
ときには嗚咽をするほどの
挫折を経験されています。
こうした経験を通して
姫野さんが常に大切にされている
中学時代の恩師の
言葉があるそうです。
一流であれ。
ただし
一流とはすごい結果を
出す人のことではない。
失敗しても
すぐに立ち上がって
考えて
行動できる人間のこと。
2021年には
日本を離れて
ラグビーの世界最高峰の1つと
言われている
ニュージーランドの
プロリーグに参戦し
見事、
新人賞を獲得されています。
現地での仲間たちからの
あだ名が
パッション
だったそうです。
中学時代の
先生の言葉を胸に
誰よりも、努力を重ね
誰よりも、体を張って
誰よりも、走って
誰よりも、泥臭く
ラグビーに向き合ってきた
様子が伝わってきますね。
当たり前のように思えることも
決して当たり前ではない。
感謝の気持ちを抱きながら
1日1日を価値ある時間と
していきたいですね。
こちらをクリック頂けますと幸いです。
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